
岩田善平は、菊地喜雄(白河出身)と共同で 明治21年に起きた磐梯山の噴火災害を撮影している。
金上和吉は、明治21年に起きた磐梯山の噴火災害を撮影し、その後、浅草の鶴淵初蔵と共同で数十枚の磐梯山噴火関連の写真を撮影。
読売新聞はに着目し、紀行文に吉原秀雄の撮影した写真を付けて全30回の「磐梯紀行」として掲載。
玉村康三郎、田中美代治、遠藤陸朗、青山三郎も現地で撮影をしている。
◆1888年の磐梯山噴火
1888年(明治21年)7月15日に発生した磐梯山の噴火。噴火に伴い山体崩壊が発生し、磐梯山を構成する成層火山の峰の一つであった小磐梯は全面的に崩壊し消滅した。そして北麓に岩屑なだれが流れ下り3つの集落が埋没した。その後、岩屑なだれは水分を含み泥流化して長瀬川流域に大きな被害を出した。更に磐梯山東麓を襲った火砕サージによる爆風、土石流によっても被害が出た。この噴火によって477名が死亡したとされ、これは明治以降の近代日本において最も多い犠牲者が発生した火山災害である。
明治維新以降、日本では規模が大きな災害は発生していなかった。磐梯山噴火は日本の近代における最初の大災害であった。磐梯山噴火に際しては、明治以降、欧米から日本に入ってきた電報や鉄道が大いに活躍することになった。そして写真や幻灯といった視覚に関わる技術が、報道や磐梯山噴火に関する講演で使用されるなど、様々な近代技術が初めて駆使されることになった自然災害でもあった。また明治20年代に入り、新聞、雑誌といった新しいメディアは急速にその発行部数を伸ばしていた。
磐梯山噴火の第一報は電報によりその日のうちに東京まで届けられた、日本鉄道は噴火の前年の1887年(明治20年)には鉄道路線を宮城県塩竈まで延ばしていた。噴火後の磐梯山には報道関係者が鉄道を利用してやってきて、それぞれのメディアの特色を生かした噴火報道を繰り広げた。鉄道の利用は現地取材に要する時間の著しい短縮化をもたらし、報道に速報性が見られるようになった。そして磐梯山噴火についての報道の中で、試行錯誤をしながらも揺籃期であった映像技術が活用された。

写真師の情報収集やサイト運営につきましては、すべて無償で運営しています。
皆様の「amazonほしい物リスト」による支援を募っています。ご利用する皆様のご理解ご協力をよろしくお願いいたします。
また、江戸時代の幕藩体制のもと、これまでの災害対応は被災した藩内など基本的に地域の中で行われてきた。それが磐梯山噴火では初めて本格的な新聞による災害義援金募集が行われるなど、国民的な関心事として災害救援が行われるようになり、日本の国民意識を育てる一つの契機になった。また戊辰戦争時には朝敵とされた会津で起きた大災害に皇室からの義援金が下賜されたり、政府も災害対策に乗り出すなど、国民に近代国家のあり方を示すことにも繋がった。
1888年の磐梯山噴火について、最も詳細な報道を行ったのは地元紙であった福島新聞であったと考えられている。しかし1888年7月の福島新聞の紙面は発見されておらず、東京発行の新聞に転載された福島新聞の記事内容から、詳細な噴火報道が行われていたことが推測されている。また各新聞の中で最も早く磐梯山噴火を報道したのも福島新聞であったことが、地元住民の日記に掲載されていた7月16日付の福島新聞記事の抜粋記事から明らかになっている。
読売新聞は自社の特派員を現地に派遣しなかった。しかし磐梯山噴火の被災地を訪れていた田中智学と写真師の吉原秀雄に着目し、田中の紀行文に吉原の撮影した写真を付けて、8月5日から10月6日の間、全30回の「磐梯紀行」として掲載した。なお、当時の日本ではまだ写真製版の技術は実用化されていなかったため、吉原の撮影した写真は銅版画に転写され、新聞紙上に印刷された。ただし当時はこの銅版画に転写された「写真」は、版画ではなく写真として受け入れられた。日本で写真製版が新聞紙上で実用化されるのは1890年(明治23年)のことで、1888年の磐梯山噴火は、これまでの写真を木版に転写した「写真版画」から写真製版に移行する、まさに過渡期にあったことを示している。
田中の現地ルポルタージュと吉原の銅板写真は、新聞紙上における写真の先駆的な利用、つまり報道写真という新たな視覚文化の誕生を意味しており、読者から大好評を受け、部数の拡張に貢献した。また読売新聞は7月中は他紙に比べて磐梯山噴火の報道は多くなかった。しかし他紙の磐梯山報道が少なくなっていく8月以降、むしろ報道に積極的となり、義援金の募集を兼ねたイベントの告知や義捐金そのものの募集関連の記事、広告が目立つようになった。
田中智学は読売新聞紙上で「磐梯紀行」を発表するばかりではなく、磐梯山の現地視察の成果をより効果的に生かそうとした。もともと田中は新聞紙上に視察の成果を発表する予定はなかった。当初の目的は幻灯を用いて幻灯会を開催し、磐梯山噴火の様子を多くの人々に知らせることによって救援活動に生かそうと考えたのである。明治20年代に入ってこれまで高価で普及が進まなかった幻灯機も値段が下がってきて、次第に広まりつつあった。
知人の写真師、吉原を説き伏せた田中は、7月20日、ともに磐梯山の現地に向かった。帰京後、吉原が撮影した写真はスライド化され、8月から9月にかけて東京とその近郊の各地で田中の解説のもとで幻灯会が開催された。この幻灯会では入場料10銭が徴収され、会場で義援金も募集されたが、ともに田中、吉原の名前で被災地に送られた。この幻灯会は好評を博し、幻灯が流行するきっかけとなったと見られている。
田中と吉原の磐梯山噴火幻灯会の観客に、尾上菊五郎がいた。幻灯会終了後、尾上菊五郎は田中を訪ね改めて話を聞いた後、10月から「是万代話柄 音聞浅間幻燈画(こればんだいのはなしぐさ おとにきくあさまげんとううつしえ)」という芝居を中村座で上演した。公演時には会場に田中が持ち帰った磐梯山の噴石などを陳列し、芝居の中でも田中智学から借り受けた磐梯山噴火の被災状況の幻灯が効果的に使用された。「是万代話柄 音聞浅間幻燈画」は、観客にとって記憶に新しい磐梯山噴火のイメージを巧妙に利用した芝居で、好評であったという。時事ネタを歌舞伎に仕立てて上演するのは江戸時代からの伝統であったが、そこに幻灯が視覚効果を生む新たな装置として活用されたのである。
また帝国大学から派遣されて磐梯山噴火の調査研究に従事した関谷清景も、普及啓発活動に幻灯を用いたと考えられている。国立科学博物館には、当時、お雇い外国人の教授であり、優れた写真撮影の技量を持っていたW.K.Burton撮影の幻灯スライドが遺されている。関谷は磐梯山噴火について大學通俗講演会という講演会で講演をしており、その際にBurton撮影のスライドを幻灯機を用いて写し、説明をしたとの記録が残っている。
そして磐梯山の噴火後、東京や地元福島の多くの写真師が災害の写真を撮影した。磐梯山噴火以前に災害を撮影した例としては、1885年(明治18年)の大阪の洪水が挙げられるが、磐梯山噴火では単なる記録用としてではなく、報道用など営利を目的として写真が盛んに利用された日本で最も早いケースであったと考えられている。また明治20年代に入り、日本でもこれまでの湿版から、取り扱いが容易で感度が高く撮影も容易な乾板が普及し始め、写真は急速に大衆化し始めていた。つまり磐梯山噴火は写真の大衆化が始まった時期に発生しており、磐梯山噴火の災害写真は日本の写真史における転換点を示すものとなっている。