
以下のほか、多くの日本人写真師が現地で開業、または支店を設けた。
◆中国・台湾の写真史
中国では、古くから異民族の官吏も受け入れていたが、西洋人もまた、明代のマテオ・リッチを嚆矢として、清代には数人の西洋人官吏が宮廷で活躍するようになった。フェルディナント・フェルビースト(中国名:南懐仁)は、ピンホールカメラを作成したとも伝わる。ただし、それがその後、中国で定着したという史料はない。中国での近代的な写真のはじまり、そして定着は、アヘン戦争(1840年~1842年)以降の欧米列強の中国進出にともなうもので、日本での始まりと同時期かそれよりも早いと推測される。当初は、欧米から中国に来た写真家が、南京条約で開港された地域(treatu ports。例えば、広東、廈門(アモイ)、寧波、上海、香港など)において、スタジオを開設するなどの活動を行った。1845年、香港最初の写真館、米国芸術家韋斯(Mr. West)開業した。香港の写真家は西洋人から写真撮影を学ぶ、が中環の商業地で香港人による最初の写真館を開いた。香港の写真家梁時泰、1871年「時泰」を開業するが、1876年上海の写真館経営。1879年、前米国大統領ユリシーズ・グラント中国を訪れた、グラントと李鴻章の集合写真撮影された。

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19世紀も後半となると、中国人による写真スタジオの活動も盛んに行われた。例えば、上海の公泰照相楼や上洋耀華照相など、また、香港の繽綸や黎華芳などである。香港と広州の写真家、上海の撮影領域大活躍、「蘇三興」、「宜昌」、「麗珠」、「寶記」、「英昌」、「同生」、「亞西亞」すべて広東の写真家によって運営。 特に、20世紀前半には、多くの日本人が、中国にわたっており、写真に関する活動も盛んであった。
孫文の友達梅屋庄吉、香港で写真館「梅屋照相館」を営み、その中でも特に、淵上白陽を中心とした「満洲写真作家協会」(1932年~)の活動および雑誌「満洲グラフ」(1933年~1944年)の刊行を挙げることができる。 香港で最初の日本人写真師・恵良彦一郎の写真館も近くにあったが、交流の有無は不明。 その他、小川一真も中国の紫禁城の写真を撮影している。また、橋本白水が20世紀前半の台湾で活躍している。
◆韓国・朝鮮の写真史
外国人との接触を禁じた李氏朝鮮の政策によって、19世紀末までその始まりが遅れた。それに先立つ1860年代や1870年代にも、フェリーチェ・ベアトのように、ごく少数の外国人写真家たちが、当時の朝鮮や、他国にいた朝鮮人の姿を、写真に収めていた。記録によれば、朝鮮人が最初に写真に撮影されたのは1863年のことで、中国に派遣された朝鮮の外交官ふたりの写真が撮られたとされるが、これは現存していない。ベアトは、1871年に、朝鮮に開国を迫るため派遣されたアメリカ合衆国の艦隊に乗り込み、江華島における辛未洋擾の戦闘などを写真に収めた。
19世紀末には朝鮮人の写真家も登場した。1883年に最初の写真スタジオを開業したキム・ヨンウォン (Kim Yong-Won) は、朝鮮で最初の職業写真家であった。キムは、日本への渡航経験があり、亀谷徳次郎などに学び、日本人写真家本多 修之助の助力を得てスタジオを開設したという。1884年には、やはり日本に学んだジ・ウンヨン (Ji Un-Young) と、上海から写真術を導入したファン・チュル (Hwang Chul) がそれぞれのスタジオを開業した。しかし、これら先駆的写真スタジオの活動はあったものの、朝鮮において写真術は繁栄には至らなかった。これら初期の写真スタジオで撮影されたと確認できる写真の現物も、現存していない。この時期には上記のホンダのほか、1885年に朝鮮で没した吉井 禎次郎( 亀谷徳次郎の娘婿)が日本人写真家として活動していた。20世紀はじめ(明治30年代末)には、上田貞治郎が経営していた大阪の写真機・写真材料商店、上田写真機店が、京城に支店を開設した。
1910年、日本が大韓帝国を併合し、以降、朝鮮における日本人写真家たちの活動が非常に活発になった。一方では、京城写真師会が1926年に結成された。さらに1930年代になると、数多くの朝鮮人アマチュア写真家が登場し、「最大で千人規模の会員数をもったアマチュアの写真クラブ70団体」が現れた。しかし、第二次世界大戦中は、朝鮮人写真家の活動は日本政府によって制限された。戦後、アマチュア写真家集団である朝鮮写真芸術研究会が1945年に結成された。当時のアマチュア写真家たちの間では、芸術写真が主流であった。