【古写真関連資料】洗い髪のお妻(安達ツギ)

洗い髪のお妻

◆安達 ツギ

明治時代の芸妓・モデル。洗い髪のお妻として知られる。長崎県下県郡中村町(現・対馬市)に生まれる。父は対馬府中藩の朝鮮奉行を務めた土岐守守道だが、仕事で朝鮮へ行った帰りの船中で暗殺される。

1886年、上京し、後に夫となる小田貴雄とともに夫婦養子で小田家に入り、1889年に貴雄と結婚した。小田が大学を卒業して鳥取師範学校校長になると、ツギは鳥取で最初に洋装をした女性として有名になるが、後に貴雄と離婚し、芸妓の「お妻」になる。

1891年、お妻は凌雲閣で開催された第1回「東京百美人」に出場し、入賞(上位5位)は逃すも「洗い髪のお妻」として注目を集めた。「洗い髪」の理由については、髪結いが自宅に来ないため、予定された撮影時刻に間に合いそうにないと判断してやむなく撮影場所に駆け込み、洗い髪のまま写真に納まったと記載する文献もあるが、第1回「東京百美人」の出場者を収めた写真集には髪を結った写真が載っており、撮影場所までは洗い髪で赴き、そこで髪を結ってもらったという説もある。

1892年、「第二回百美人」にも出場し、この時は洗い髪の写真でエントリーして2位入賞を果たした。

お妻の洗い髪は一種のトレードマークとなり、彼女は客のリクエストに応じて洗い髪でお座敷に出ることも増えた。1900年、日本で絵葉書が販売開始された際も、お妻は洗い髪の写真で絵葉書を飾った。また、百花堂株式会社から発売された洗髪料の「香料入高級御髪あらひ粉」の袋に見られるように商品の広告モデルも務めた。たばこの「ゴールデンバット」はお妻のシガレットカードを入れることにより人気を呼んだ。

晩年は築地に「寒菊」という待合を経営し、1915年に心臓麻痺で死去した。享年43歳。

頭山満の寵愛と庇護を受けたことでも知られる。1890年1月、枡田屋の主人から紹介を受けると、頭山は一目惚れしたという。お妻も頭山に惚れており、芝の待合(料亭とも)「浜の家」では伊藤博文・渋沢栄一・後藤象二郎などの”大物”の座敷をキャンセルしてまで頭山と過ごした。しかし、1896年、頭山はお妻の毛髪を短刀で切り落とすと、それきりお妻を呼ばなくなった。彼女が頭山に囲われているにもかかわらず、家橘という役者(後の市村羽左衛門)を情夫にしたことへの制裁とされる。

◆東京百美人
このイベントの正式名称は不詳。当時の新聞報道でも「東京芸妓美人えり抜き百名」「選美写真の品評会」「選美百妓の写真」「百美人品評会」「選美投票」「美人写真品評会」等と呼ばれていた。また、巷間言われるように日本初のミスコンでもない。1890年4月の報道で、「応募者の写真を審査して賞金を与える」イベントが確認できる。

候補者の写真は小川一眞が通常の営業を休んで特設の撮影スタジオで撮った。全員同じ背景の前でポーズを決めているが、公平性の担保のためだけではなく、当時は自前で写真を用意できる女性は少数派だったことも関係している。小川は、後に“百美人”の写真を盛んに発表するが、そのきっかけが当コンテストである。

アマゾン欲しいものリスト

写真師の情報収集やサイト運営につきましては、すべて無償で運営しています。
皆様の「amazonほしい物リスト」による支援を募っています。ご利用する皆様のご理解ご協力をよろしくお願いいたします。

一等の末弘ヒロ子を撮影したのは彼女の義兄でもある江崎清、二等の金田ケン子を撮影したのは大武丈夫、三等の土屋ノブ子を撮影したのは山県源吾
末弘ヒロ子は学習院女学部3年に在籍し、通学のため義兄・江崎清の家に下宿していた。