
◆大野 昌三郎
宇和島藩下級藩士。宇和島藩士・斎藤家の三男に生まれる。兄に斎藤丈蔵がいる。徒の大野家を継いだ。嘉永 4 年、分限帳に四人分(内一人分け足高)九俵と記載されている。 柔術にすぐれ、弘化2年、宇和島藩の武術大会に出場している。嘉永元年、高野長英が宇和島に来た時、谷依中・土居直三郎と共に蘭学を学ぶ。 嘉永 2 年、京都・大坂への遊学を命じられる。 長崎でオランダ通詞・森山栄之助にも学んだ。 嘉永 6 年、宇和島を訪れた大村益次郎にも学んだ。嘉永6年、村田蔵六が宇和島を訪れた際に、三瀬周三(シーボルト最後の弟子で、のち楠本イネの娘・楠本高子と結婚)とともに学んでいる。文久 3 年、脱藩(隠居)し、民間で蘭学研究に従事。 元治元年、楠本イネと楠本高子を伴って宇和島に帰郷している。慶応 3 年、独学で写真術を覚え、息子(大野悪鬼三郎・1862年生)を撮影。初期の今治吹上城の写真などが残る。明治 5 年頃、楠本イネから写真術を伝授されている。明治6年、小野義真(内務省土木頭)に招かれ、「準奏任御用掛、土木寮勤務、月俸百円」の辞令のもとに、蘭書翻訳に従事する厚遇新政府に出仕したが、間もなくして辞職し、宇和島に戻った。明治 13 年、死去。墓は宇和島の泰平寺。
◆三瀬 諸淵
明治2〜3年頃、大坂本町橋西誥の中村雅朝、心斎橋の中川信輔のもとで写真を撮っている。
幕末・明治期の医師。初名・周三。幼名は弁次郎、字は修夫。伊予国大洲出身。幼い頃に両親を失い親戚の下で育てられる。幼い頃から学ぶことに熱心だった諸淵は、大洲市八幡神社の神主、常磐井家が開いた私塾「古学堂」にて国学を学んだ。そして1855年、遠縁の医師二宮敬作の弟子となり、その際、二宮の元にいた長州藩の村田蔵六(大村益次郎)からオランダ語を学び、蘭学に関心を抱くようになっていく。その後、二宮とともに長崎に渡り蘭学、医学を修めた。
安政5年(1858年)に大洲に一時帰郷したときに、長崎から持ち帰った発電機と電信機を持って、古学堂に旧師、常磐井厳矛を訪ね、大洲藩の許可を受けて古学堂から肱川の河川敷まで電線を引き、「電信」の実験を行った。古学堂2階から肱川向かいの矢六谷の水亭まで約980メートルの間に銅線を架設し、打電したところ成功。その様子は日本電信電話株式会社広報部 『電話100年小史』(1990年)にも取り上げられている。また、八幡神社参道には、NTTによって「日本における電信の黎明」碑が建てられている。
安政6年(1859年)、二宮の師であったシーボルトが再来日すると、シーボルトに預けられた。シーボルトの長男のアレクサンダー・フォン・シーボルトの家庭教師役を務めながら、自身は医学を学んだ。
文久2年(1862年)になると、諸淵がシーボルトのために国学の知識を生かして、日本の歴史書の翻訳をおこなっていた事が発覚、投獄される。しかし、後世書かれた妻・高子の手記によると、通訳の件に関して公の役人を差しおいたことが一因であるという。2年後の1864年に出獄している。
釈放後、大洲に帰国するが、そのまま大洲藩に召される事になる。後に江戸幕府によって大坂に召されるが、明治維新を迎えると、そのまま新政府に仕えて医学校の創設にあたる。
この間の慶応2年(1866年)にシーボルトの孫娘にあたる楠本高子と結婚している。明治元年(1868年)、明治新政府の命により、大阪で大阪大学医学部の前身にあたる大阪医学校兼病院設立に携わり、教官(大学小助教)を務めた。明治3年(1870年)頃に諸淵と名乗り始める。明治4年1871年に文部省が設置され、東京医学校の創設時に、招かれ文部中助教となり、翌年には文部大助教を務めた。明治6年(1873年)に官を退いて大阪で病院を開くが、明治10年(1877年)胃腸カタルにより39歳で死去した。大正15年(1926年)に医学教育における功労によって正五位が贈られた。
◆楠本 イネ
日本の医師。現在の長崎県長崎市出身。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた。1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧(1807年 – 1869年)の間に生まれる。
「楠本」は母の姓である。父シーボルトの名に漢字を当て、「失本(しいもと)イネ」とも名乗った。
母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産した。イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。ところが父シーボルトは1828年(文政11年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。
イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。
ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、以後は産婆として開業する。62歳の時、娘高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。
なお、イネは生涯独身だったが、宗謙との間に儲けた娘・タダがいた。タダ自身の手記によれば、イネは石井によって船中で強姦されて妊娠した。タダの手記は以下のとおりである。その後、宗謙は師匠のシーボルトの娘に手をつけていたとして他のシーボルト門下生から非難され、イネは彼のことを激しく憎んだ。彼女は未婚のまま一人出産し、生まれてきた私生児を「天がただで授けたもの」という意味をこめてタダと名付けたとされる。後年、タダも母と同じく伊達宗城により改名を指示され、「高」と名乗った。
なお、娘である楠本高子はその美しい容貌から、後に明治の美人写真を見ていた松本零士が『銀河鉄道999』のメーテルや『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャのモデルにしたと言われている。なお、高子も医師に強姦されて出産しており、親子2代にわたって悲劇に見舞われた。
日本での子孫は楠本家、米山家。資料については叔父ハインリヒ・フォン・シーボルトの子孫でシーボルト研究家の関口忠志を中心に設立された日本シーボルト協会、子孫及び研究者より資料を委託されたシーボルト記念館、イネの師で鳴滝塾生である二宮敬作の出身地愛媛県西予市の資料館が研究を進めている。
◆楠本 高子
現在の長崎県長崎市出身。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの孫娘で、楠本イネの娘。結婚後の改姓により三瀬高子(みせ たかこ)、山脇高子(やまわき たかこ)、山脇たかとも呼ばれる。高子が後年書いた手記によると、高子はイネが、師、石井宗謙に関係を強要されて宿した娘であり、当初は天がただで授けたものであろう、というあきらめの境地から「タダ子」とよばれていた。幼少期の初恋は檜野家の丹治太という名の藩士である。
1864年、13歳の時まで長崎の祖母・お滝の元で育つ。幼少時は琴や三味線、舞など芸事に熱心であり、医者を嗣ぐことを期待していたイネを嘆かせていたという。1865年、母の師・二宮敬作の縁により宇和島藩の奥女中として奉公を始める。
そして翌1866年(慶応2年)、三瀬諸淵(三瀬周三)と結婚する。三瀬はシーボルト門下の医者で、二宮敬作の甥に当たった。
1877年(明治10年)に夫・三瀬諸淵に先立たれた後、異母兄・石井信義の元で産婦人科を学んだ。
しかし、その中で医師・片桐重明に船中で強姦され、男児(亡き夫三瀬周三にちなんで、周三と命名。後にイネの養子となり、楠本家を継ぐ)を生む事態となり、医業の道は断念した。
失意の高子であったが、その後にかねてより高子に求婚していた医師・山脇泰助と再婚した。山脇との間に一男二女を授かるが、結婚7年目に山脇は病死した。
その後は叔父のハインリヒ・フォン・シーボルトの世話を受け、東京で母のイネと共に暮らした。以後は幼少時に熱心だった芸事の教授をして生計を立てていた。高子には2男2女がいる。最初の夫・三瀬諸淵との間に子はいなかった。
第一子の長男・楠本周三 (医師・片桐重明に船中で強姦されてうまれた子)は、東京慈恵医院医学専門学校にて学び、医師となる。再婚した山脇泰輔との間に、第二子にあたる長男・初(はじめ)(明治14年7月1日午後1時10分、生後8か月で夭折)、長女・滝(既婚、40歳頃死去)、次女・タネ(種、米山家に嫁ぐ、105歳にて永眠)がいる。
長女の滝の死について、楠本高子による『山脇タカ子談』よると「39カ40歳ノ頃死ニマシタ、気ガ狂イマシテ」と記されている。
タネの孫にサンチェス聖子、楠本周三の息子に楠本周篤、楠本周篤の妹の孫に堀内和一朗がいる。2012年(平成24年)9月現在、本人の手記が公開されている。
その美しい容貌は、松本零士が『銀河鉄道999』のメーテルや『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャのモデルにしたと言われている。
正確に言うと、メーテルの造形は松本がオリジナルのものとして造りあげていたが、その後、ある機会に楠本高子の肖像写真を見て「この女性こそ、自分がずっと思い描いていた女性だ!」と衝撃を受けた。 日本での子孫は楠本家(第一子楠本周三の系統)、米山家(第四子米山種の系統)。
資料については叔父ハインリヒ・フォン・シーボルトの子孫でシーボルト研究家の関口忠志を中心に設立された日本シーボルト協会、子孫及び研究者より資料を委託されたシーボルト記念館、稲の恩師で鳴滝塾生である二宮敬作の出身地愛媛県西予市の資料館が研究を進めている。
評論家の羽仁説子は、晩年の高子に会って話を聞いている。当時、高子は次女の米山種のもとに同居していた、その都内の住まいを羽仁は訪ねている。その折の話をもとに、羽仁は「シーボルトの娘たち」を上梓した。この著作は平成に入ってから再刊されている。
