【古写真関連資料】1908年創業・深瀬写真館

深瀬写真館

◆深瀬昌久
日本の写真家。北海道中川郡美深町生まれ。写真表現を通して「私性」と「遊戯」を追求した写真家として知られる。

1908年に祖父・深瀬庸光が美深町に創設した深瀬写真館の長男として誕生したため、3代目跡継ぎとして期待された。
6歳になるとプリント水洗の仕事を手伝わされ、外に遊びにいきたい気持ちをじっと我慢しながら従事したという。深瀬はのちに「私の写真への怨恨はたぶんこのころ芽生えたものであろう」と記すほどであった。言うなれば、この世に生まれ落ちる前から深瀬の人生は写真館の後継者として宿命づけられていた。日本大学芸術学部写真学科に入学するために上京し、その後は東京の広告会社である第一宣伝社に就職。これをきっかけに写真家としての道を歩むこととなり、深瀬写真館は後に弟の深瀬了暉が継ぐことになる。この時のことを深瀬が自ら「写真師と写真家の岐路になった」と振り返ったように、その後のキャリアは写真館を経営する写真技師ではなく写真表現を主体とする写真家を目指すものとなっていった。

1960年 – 初の個展「製油所の空」(小西六ギャラリー)を開催。『コマーシャルフォト』の編集者であった玉田顕一郎の目にとまり、写真評論家・吉村伸哉を紹介される。

1964年、日本大学の1年後輩の高梨豊に誘われ、日本デザインセンターに転職。前年に出会った鰐部洋子と結婚。1967年に日本デザインセンターから河出書房新社に転職し、写真部長に就任。しかしすぐに会社が倒産したことをきっかけに、1968年にフリーランスへと転身した。以降は写真作家としてカメラ雑誌を中心とした雑誌媒体に精力的に作品を発表していった。

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深瀬は自分自身の家族やカラス、猫といった題材を通じて「私性」と「遊戯」を追求した写真家であり、代表作『鴉』(蒼穹舎、1986年)は発刊から30年以上が経つ現在も高い評価を得るが、1992年の転落事故が原因となり作家活動が途絶え、以降は長らく作品が公表されない不運の作家として位置づけられてきた。2014年に深瀬昌久アーカイブス(創設者兼ディレクター:トモ・コスガ)が設立されると回顧展の開催や写真集の復刊が相次ぎ、長らくベールに包まれていた作品群の全貌が明らかにされた。2018年、深瀬の作家活動40年が編さんされた『MASAHISA FUKASE』が刊行された。