【古写真関連資料】写真師・江原熊太郎、末崎仁平と、明治 29 年・明治三陸地震(明治三陸大津波)

明治 29 年・明治三陸地震(明治三陸大津波)

江原 熊太郎
明治 29 年 6 月 19 日、毎日新聞に「群馬縣高崎町寫眞師・江原熊太郎、江原竹次郎、伊藤方直の三氏」が明治三陸地震(明治三陸大津波)の出張撮影をしたと記載されている。 江原竹次郎、伊藤方直は助手と思われるが不詳。

末崎 仁平
明治 29 年、明治三陸地震(明治三陸大津波)で被災した鍬ヶ崎から光岸地方面を撮影。後日、焼き増したものを19枚のセットにして販売したという。

◆明治三陸地震(明治三陸大津波)

1896年(明治29年)6月15日午後7時32分30秒、日本の岩手県上閉伊郡釜石町(現・釜石市)の東方沖200kmの三陸沖を震源として起こった地震である。マグニチュード8.2- 8.5の巨大地震であった。さらに、東北地方太平洋沖地震前まで本州における観測史上最高の遡上高だった海抜38.2mを記録する津波が発生し、甚大な被害を与えた。

なお、当地震を機に「三陸海岸」という名称が広く使用され始めた。

1888年(明治21年)の磐梯山の噴火や1891年(明治24年)の濃尾地震のときから新聞報道が全国的にされるようになり、義援金が集まるようになった。各地の震度は2- 3程度であり、緩やかな長く続く震動であったが誰も気にかけない程度の地震であった。地震動による直接的な被害はほとんどなかったが、大津波が発生し、甚大な被害をもたらした。

低角逆断層(衝上断層)型の海溝型地震と推定される。三陸沖地震の一つと考えられ、固有地震であるが、震源域は特定されていないため、発生間隔は数十年から百数十年と考えられる。

鳴動現象はこの地震でも報告があり、水澤町や二戸郡福岡町では地震動の到着から数分から10分後に遠雷あるいは発砲のような音を聞いた。

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大津波の第一波は、地震発生から約30分後の午後8時7分に記録されている。到達した範囲は北海道から宮城県にわたった。

遡上高は、北海道庁幌泉郡(現北海道幌泉郡えりも町)の襟裳岬では海抜4m、青森県三戸郡八戸町近辺(現在の八戸市内丸あたり)で3m、宮城県牡鹿郡女川村(現女川町女川浜女川)で3.1mであった。岩手県の三陸海岸では下閉伊郡田老村(現宮古市田老地区)で14.6m、同郡船越村(現下閉伊郡山田町船越)[注 5]で10.5m、同郡重茂村(現宮古市重茂)で18.9m、上閉伊郡釜石町(現釜石市釜石)[注 7]で8.2m、気仙郡吉浜村(旧気仙郡三陸町吉浜、現大船渡市三陸町吉浜)で22.4m、同郡綾里村(旧気仙郡三陸町綾里、現大船渡市三陸町綾里)で21.9mと、軒並み10mを超える到達高度を記録している。

特に綾里湾[注 1][注 8]の奥では入り組んだ谷状の部分を遡上して、日本の本州で観測された津波では当時もっとも高い遡上高である海抜38.2mを記録した。

小説家・吉村昭は、ルポルタージュ『三陸海岸大津波』のために、この災害に関する証言収集の一環として、1970年(昭和45年)に岩手県田野畑村羅賀を訪問した。津波発生時に10歳であった中村丹蔵(インタビュー当時85歳)から海抜50m近くあった自宅にすごい勢いで津波が浸水してきたという証言を得た[12]と記しているが、海洋学者・三好寿は「件の老人の家は、国土地理院の地図によると海抜25m程度に位置し、50mという値は『吉村と老人の会話の食い違い』から生じた誤認であった」との見解を示している。
文春文庫版p25-27、p117によれば、自宅を現地調査のうえで執筆しており、自宅で『40mぐらいはあるでしょうか』という筆者の問いに、村長(早野仙平)が『いや、50mはあるでしょう』と答えている。
羅賀には、海岸から360m、標高25-28mのところに津波石がある。明治三陸地震津波で打ち上げられ、高さ2m以上、重さは約20tあるという。遡上高はもっと高かった。東日本大震災での羅賀地区での遡上高は27.8mだった。