
◆M・パテー商会
かつて東京に存在した日本の映画会社。日本最古の映画会社のひとつであり、日活を構成する前身4社のうち1社として映画史にその名を残す。また、創業者の梅屋庄吉が香港時代に親友となった孫文を資金的に支援していたことも知られている。
長崎の貿易商で、20代の1895年(明治28年)ころには香港島の金融街で写真館「梅屋照相館」を経営していた梅屋庄吉が、フランスのパテー(Pathé)社の映画プリントをイギリスの植民地のシンガポールで入手、それを手に帰国して1906年(明治38年)7月4日に「M・パテー活動写真商会」を設立、京橋区の「新富座」で第1回興行を行ったのが同社の始まりである。
社名の「M」は梅屋(Mumeya)の頭文字であり、「パテー」はパテー社の社名を無断で借用したものである。
同会に撮影技師として岩岡巽は入社している。同年、同会は「M・パテー商会」に改組。このころ同社の「弁士養成所」に主任として入社したのが、当時活動弁士、のちの映画監督の岩藤思雪であった。

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当初は輸入物の作品を岩藤のようなスタッフが翻訳して活弁台本を作成、興行をしていたが、1908年(明治40年)には中村歌扇らの俳優を出演させた劇映画を製作し始める。同年、株式会社化。1909年(明治42年)、東京府豊多摩郡大久保百人町(現在の新宿区百人町)に撮影所をオープン。第一作の「大西郷一代記」は評判を呼び、両国の国技館で初上映されたという。庄吉は中国革命の父孫文と意気投合して革命の資金にこの映画事業の収益を当てたという。亡命中の孫文は度々ここを訪れている。 同年5月23日には岩藤の脚本・監督作『日本桜』が「第一文明館」で公開されている。同作は岩岡が撮影し、新派劇の俳優・関根達発が主演している。また同年、のちの映画監督の阪田重則が、15歳で同社に入社、巡回興行の映写係を経て、撮影所の撮影係となっている。このころ、同社が熊本での設立を支援した「熊本電気館」(Denkikan)は、移転や改築を経てはいるが、現存する最古の映画館である。
1911年(明治44年)には、同社の撮影技師田泉保直を南極に派遣し、白瀬矗率いる「第二次南極探検隊」に随行させて、ドキュメンタリー映画『日本南極探検』を製作、翌1912年(大正元年)に公開している。
同年9月1日、福宝堂、横田商会、吉沢商店との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)を設立した。梅屋の私邸の敷地内であった大久保撮影所はこのとき閉鎖されたが、のちに梅屋はM・カシー商会を立ち上げ、同撮影所を稼動することになる。
◆M・カシー商会
1915年 設立 – 1916年 活動停止)は、かつて東京に存在した日本の映画会社である。「M・パテー商会」の日活への合併後、創業者の梅屋庄吉が再度独立して設立した。のちの喜劇俳優高勢実乗や、のちにマキノ・プロダクション等で活躍する名カメラマン三木滋人の映画デビューの機会をつくった会社としても知られる。1912年(大正元年)9月、M・パテー商会、福宝堂、横田商会、吉沢商店との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)が設立され、翌1913年(大正2年)10月には東京府南葛飾郡隅田村字堤外142番地(現在の墨田区堤通2丁目19番地1号)に「日活向島撮影所」がオープンした。しかし同社はなかなか一枚岩にはなれず、経営者サイドも従業員サイドも内紛が絶えず、旧吉沢商店系は向島に移ったが、旧福宝堂系、旧M・パテー系はそれに抵抗、撮影所近辺に天幕ステージを張り、独自の撮影を行っていた。
旧福宝堂系は営業から小林喜三郎や山川吉之助が抜け、常盤商会(のちに小林商会)や東洋商会を設立、旧吉沢系の千葉吉蔵、小西亮を引き抜き、製作サイドも多く流れ、また東洋商会へ流れなかった者も小松商会や弥満登音影に加わった。旧M・パテー系は大阪の敷島商会へ移籍、日活首脳陣はこのころ総辞職している。辞職した梅屋が、1915年(大正4年)、もともと梅屋の私邸であった「大久保百人町撮影所」をM・パテー商会合併以来再稼動、独自の映画製作・興行を開始すべく設立したのがこの「M・カシー商会」である。設立第1作は『我が子の家』で、同年6月に「深川座」で公開された。
社名の「M」は梅屋(Mumeya)の頭文字であり(「M・パテー商会」の「M」と同じ)、「カシー」は、梅屋庄吉の妻・トクの実家の姓「香椎」からとったものである。
同年、『先代萩』を中村歌扇の主演、当時14歳の三木滋人(三木稔)を撮影に起用して製作したほか、旧吉沢商店系の俳優、弥満登音影から移籍した者などを起用し、劇映画製作をつづけたが、翌1916年(大正5年)3月に深川座で公開された『新吉原廓達引』を最後に劇映画を発表していない。
同年11月3日の裕仁親王(のちの昭和天皇)の立太子礼において、その当日のもようを根岸興行部、小松商会、小林商会、天然色活動写真(天活)、東京シネマ商会、日活との7社競作で製作することになり、梅屋が陣頭指揮を執り、撮影現場を同社が独占している。同作は『立太子式当日市中雑観』として、式典の翌日の4日に早くも各社によって公開されたが、白黒フィルムの作品は同社の原版が使用されたという。天活は天然色の「キネマカラー」で公開しているので独自の撮影が行われたようである。 同社の撮影所はふたたび稼動をやめたが、10年後の1926年(大正15年)、梅屋は日活から独立した俳優の片岡松燕を支援し、「片岡松燕プロダクション」が同撮影所をみたび稼動させることになる。