
平成18年(2007年)3月27日放映の情報系バラエティ番組『開運!なんでも鑑定団』にてスイスの写真研究家、ルイ・ミッシェル・オエールから彦蔵(ジョセフ・ヒコ)の写真の鑑定依頼があった。鑑定の結果、サンフランシスコ到着後の 嘉永4年(1851年)に撮影されたものと断定、日本人を撮影したダゲレオタイプ写真の最古の記録を塗り替える大発見となった。
◆浜田 彦蔵
幕末に活躍した通訳、貿易商。「新聞の父」と言われる。洗礼名はジョセフ・ヒコ (ジョセフ彦、Joseph Heco)。幼名は彦太郎(ひこたろう)。帰国後は「アメ彦」の通称で知られた。
播磨国加古郡阿閇村古宮(現・兵庫県加古郡播磨町)で生まれる。幼い頃に父が亡くなり、年若い母が近村の濱田村に住む吉右衛門と再婚、異母兄の宇之吉と共に育つ。廻船を業とする父や兄の影響から船乗りの仕事に憧れていたが、母が良しとせず、2年ほど寺子屋へ通う。嘉永3年3月(1850年)、八百石積み和船の船乗りであった従兄弟からの誘いで、初めて四国の金毘羅詣での観光客を運ぶ和船に便乗した。
嘉永4年3月(1851年)嘉永4年(1851年)の13歳の時に母を亡くす。その直後に義父の船に乗って海に出て途中で知人の船・栄力丸に乗り換えて江戸に向かう航海中、その船が10月29日(11月22日)に紀伊半島の大王岬沖で難破。2ヶ月太平洋を漂流した後、12月21日(1852年1月12日)に南鳥島付近でアメリカの商船・オークランド号に発見され救助される。
その後、救助してくれた船員たちと共にサンフランシスコに滞在。アメリカ政府より日本へ帰還させるよう命令が出て嘉永5年3月13日(1852年5月1日)にサンフランシスコを出発し、5月20日(7月7日)に香港に到着する。そこから、東インド艦隊長官・ペリーの船に同乗し日本へ帰還するはずだった。しかしペリーがなかなか来ず、その間に香港で出会った日本人・力松(モリソン号事件での漂流民のひとり)の体験談を聞き自分達がアメリカの外交カードにされるとの懸念から、10月に亀蔵・次作とともにアメリカに戻る。なお、ほかの栄力丸船員の多くは、同じくモリソン号事件関係者で上海定住していた日本人・音吉に匿われ、後に清国船で長崎経由の帰国に成功している。ただひとり仙太郎はペリー艦隊に同行した。
サンフランシスコに帰った後は、亀蔵・次作の2人とも別れて下宿屋の下働きなどをしていたが、税関長のサンダースに引き取られた。その後、ニューヨークに赴く。なお、亀蔵と次作はそれぞれ船員として働き、開国後に日本へと帰国している。嘉永6年8月13日(1853年9月15日)には日本人として初めてアメリカ大統領(当時はフランクリン・ピアース)と会見した。またサンダースによりボルチモアのミッション・スクールで学校教育を受けさせてもらい、カトリックの洗礼も受けた。安政4年11月25日(1858年1月9日)にはピアースの次代の大統領ジェームズ・ブキャナンとも会見した。
そして安政5年(1858年)、日米修好通商条約で日本が開国した事を知り日本への望郷の念が強まった彦蔵はキリシタンとなった今ではそのまま帰国することはできなかったので、帰化してアメリカ国民となった。その翌年の安政6年(1859年)に駐日公使・ハリスにより神奈川領事館通訳として採用され、6月18日(7月17日)に長崎・神奈川へ入港し9年ぶりの帰国を果たした。
翌年2月に領事館通訳の職を辞め、貿易商館を開く。しかし当時は尊皇攘夷思想が世に蔓延しており外国人だけでなく外国人に関係した者もその過激派によって狙われる時代であったため、彦蔵は身の危険を感じて文久元年9月17日(1861年10月20日)にアメリカに戻った。
再度アメリカに帰った後は、文久2年3月2日(1862年3月31日)にブキャナンの次代の大統領エイブラハム・リンカーンと会見している。同年10月13日(12月4日)に再び日本に赴き、再び領事館通訳に職に就く。文久3年9月30日(1863年11月11日)に領事館通訳の職を再び辞め、外国人居留地で商売を始めた。
翌元治元年6月28日(1864年7月31日)、岸田吟香の協力を受けて英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。これが日本で最初の日本語の新聞と言われる。ただしこの新聞発行は赤字であったため、数ヵ月後に消滅した。
慶応4年8月7日(1868年9月22日)、18年ぶりに帰郷。明治2年(1869年)6月には大阪造幣局の創設に尽力した。その後は大蔵省に務めて国立銀行条例の編纂に関わったり茶の輸出、精米所経営などを行なった。明治30年(1897年)12月12日、心臓病の為東京の自宅にて61歳で死去。日本人に戻る法的根拠が無かったことから死後、外国人として青山の外国人墓地に葬られた。尚、国籍法が制定されたのは明治32年(1899年)のことであった。
◆岸田吟香
幼名は岸田辰大郎。名前は岸田大郎、岸田大郎左衛門、岸田達蔵、岸田称子麻呂、岸田清原桜、岸田作良、岸田さくら、岸田まゝよ、岸田銀次、岸田銀次郎など。ほかに墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸大郎、岸桜、小林屋銀次、岸田銀治、岸田屋銀治、京屋銀治郎、桜井銀治郎なども名乗っている。 号は岸田吟香、岸田東洋、岸田桜草。筆名には岸田吟道人がある。
父は大百姓、岸田修治郎。
天保9年、垪和村の宝寿寺住職に学んだ。 天保9年、鍋島藩の『御次日記』に、客人に饗応された献立に「御丼 生卵」という表記が見られ、日本で初めて卵かけご飯を食べた人物となっている。 弘化2年、久米北条郡の安藤善一(安藤簡斎)に入門。 嘉永5年、江戸に入る。
翌年、津山藩儒昌谷精渓の赤松塾に入門。その紹介で同年、林図書頭に入門。
嘉永6年、津山藩儒・昌谷精渓の赤松塾に入門、その紹介で林図書頭に入門。
安政2年、三河国挙母藩の中小姓となり、大郎と改名(大郎左衛門とも)。年末、脚気悪化のため帰国療養。 安政3年、大大坂で藤沢東畡の泊園書院(現・ 関西大学)で漢学を学ぶ。
安政4年、江戸で藤森天山に入門。
安政5年、藤森天山が幕府に追われる身となる。
安政6年、藤森天山との関りが疑われ、幕府に追われ、上野国伊香保へ避難。
安政6年、江戸に戻り結婚するが流行病で1カ月ほどで妻が死去。
文久元年、三河挙母藩で儒官に昇任するが脱藩、上州を経て江戸に入る。銀次と名乗り、深川で生活し妓楼箱屋の主人や湯屋の三助など下男として糊口をしのぎ、吉原に住んだ。
当時、気ままに暮らす「ままよのぎん」と名乗っていたがことが転じて、「銀次」「銀公」と呼ばれるようになり、「吟香」と称するようになった。
陸游の詩の一節、「吟到梅花句亦香」からとったものであるともいう。
文久3年、眼病を患い、箕作秋坪の紹介でヘボンを訪ねる。横浜でヘボンの『和英語林集成』編纂を助け始め、知り合ったジョセフ・ヒコに英語について学ぶ。年末、深川に移住。
文久4年、日本最初の新聞『新聞誌(海外新聞)』をジョセフ・ヒコ、本間潜蔵とともに創刊。年末、うたと再婚し浅草に移住。
慶応元年、横浜に移り、ヘボンの手伝いを本格的に始める。
慶応2年、『和英語林集成』の印刷刊行のためにヘボンと上海へ渡航。慶応3年5月までの美華書館で印刷、校訂につとめた。
慶応3年、辞書は完成し、7月に横浜の居留地で発売された。同年日本へ帰国すると、まもなくヘボンより処方を教授された眼薬「精錡水」の販売をはじめた。
この美華書館は、アメリカ長老会が1860年に上海に進出・設立した印刷所で、第6代館長ウィリアム・ギャンブル (William Gamble) のもと、当時アジア最高の印刷所であったが、片仮名の活字がなかったために吟香の版下に基いて鑄造しなければならなかった。
慶応4年、上海に渡航。上海に「精錡水」の取次所を設置。帰国後、『横浜新報・もしほ草』をヴァン・リードと発刊。横浜東京間の定期航路を運営。
明治2年、氷製造販売開始。横浜海産物問屋小林屋の娘小林勝子16歳と再婚。上野観成院早川久満方に起居。
明治3年、北海道函館で氷の製造開始。横浜に玩具古物の店をひらく。
明治4年、横浜氷室商会設立。
明治5年、「東京日日新聞」創刊に関係する。岡山に帰省。
明治6年、関西遊覧しつつ東京日日新聞へ記事を送る。伊香保での病気療養ののち、「東京日日新聞」に主筆として入社。
明治7年、台湾出兵に従軍して『台湾従軍記』を連載。写真師・松崎晋二も従軍していた。下岡蓮杖には台湾の情報などを伝えていたという。
大倉喜八郎にクリスチャンであることを告白。「東京日日新聞」編集長となる。
明治8年、横浜から東京尾張町を経て秋には銀座に移る。
明治9年、明治天皇の東北北海道巡幸に随行。
明治10年、このころ「楽善堂」の屋号を掲げ始める。
明治11年、明治天皇の北陸東海巡幸に随行。
明治13年、「精錡水」販売のために上海にわたり「楽善堂支店」開設し夏に帰国。
販路を各地に拡げる成功を収めた。榎本武揚・長岡護美・曽根俊虎らと興亜会(亜細亜協会)を組織。
明治15年、上海渡航。年内に帰国。中国で科挙用の袖珍本を出版し多大な利益を得る。
明治16年、上海渡航、翌年まで中国に滞在。
明治17年、年末帰国。
明治18年、上海渡航。
明治19年、上海渡航。漢口へ駐在武官として赴任する途中の荒尾精が吟香をたずね、のち「漢口楽善堂」を開設し大陸での諸調査を援助することになる。
明治21年、上海渡航、漢口旅行を経て翌年帰国。
明治24年、四男劉生誕生。
明治27年、勲六等に叙される。
明治30年、日本薬学会常議員となる。病死した荒尾精の同志たちとともに「同文会」を設立する。
明治31年、「東亜会」と「同文会」が合併し「東亜同文会」成立。評議委員となる。
明治32年、「善隣訳書館」(内外書物の中国語版を出版する)設立。
明治33年、近衛篤麿と「国民同盟会」を組織。
明治34年、近衛篤麿と「東亜同文医学会」を組織。
明治35年、「東亜同文医学会」を発展させ「同仁会」を組織。
明治38年、死去。晩年は『清国地誌』の編纂に努めたが完成を待たず、心臓病と肺炎のため亡くなった。墓は東京の谷中墓地にある。
長男・岸田銀次は吟香より先に没し、次男の艾生が吟香の名を継いだ。第9子、四男・岸田劉生は洋画家であり、その下の弟岸田辰彌は宝塚歌劇団創設期の演出家。