
◆日本テレビ放送網株式会社
日本テレビホールディングスの連結子会社で、関東広域圏を放送対象地域(放送エリア)としてテレビジョン放送を行う特定地上基幹放送事業者。日本国内で一番最初の民放テレビ局として開局した。一般的には日本テレビ(にほんテレビ)または日テレ(にっテレ)と呼ばれる。コールサイン「JOAX-DTV」(東京 25ch)NNN日本ニュースネットワーク、NNS日本テレビネットワーク協議会(日本テレビ系列)のキー局である。 スカパー!プレミアムサービスをプラットフォームとして日テレジータスの放送を行う衛星一般放送事業者でもある。 なお、認定放送持株会社制移行のために、2012年10月1日に(旧)日本テレビ放送網株式会社(現日本テレビホールディングス株式会社・旧会社)から新設分割され、移管・放送免許を承継した(新)日本テレビ放送網株式会社(現行会社)が現業を行っている。
1951年
8月13日 カール・ムント米上院議員が「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表。
9月4日 正力松太郎、日本テレビ放送網設立構想を発表。
10月2日 日本テレビ放送網、テレビ放送免許を申請。
1952年
7月31日 NHKに先んじて、日本で最初のテレビ放送予備免許を取得。
10月15日 創立総会を開催し、正力松太郎を社長に選出。
10月28日 会社設立(資本金2億5千万円)。設立資金は正力からの要請を受けた池田勇人大蔵大臣が、財界人に声をかけ資金を調達した。
1953年
4月15日 資本金を5億円に増資。
8月17日 名古屋と大阪にテレビ局の免許を申請(後に却下)。
8月18日 街頭テレビ受像機を関東一円(都内29か所、周辺部13か所)に設置。
8月20日 試験電波を発射。
8月27日 テレビ放送本免許を取得。
8月28日 午前10時から「テストパターン」を流し、午前11時20分、『鳩の休日』の映像と共に民放初のテレビ局(地上アナログ)として本放送を開始(この日が開局記念日)。日本初のテレビ局としての開局を目指していたが、多くの放送機材を米国からの輸入に頼っていたため納入が間に合わず、機材をほぼ国産品で揃えたNHKに先行された。日本で初めてとなるテレビCM(精工舎提供)を放送。
8月29日 プロ野球巨人 – 阪神戦(後楽園球場)を民放テレビ局として初中継。
8月31日 民放テレビ局として初のテレビドラマ『NTV劇場・私は約束を守った』放送。
9月4日 民放テレビ局として初の連続ドラマ『パック町を行く』放送開始。
10月27日 プロボクシング世界選手権白井義男 – テリー・アレン戦を中継。街頭テレビ熱高まる。
11月15日 民放テレビ局として初めて中央競馬のテレビ中継となる秋の天皇賞(東京競馬場)を放送。
11月27日 民放テレビ局として初めて地方競馬のテレビ中継(船橋競馬場)を行う 。
1954年
2月19日 『力道山・木村政彦対シャープ兄弟プロレス実況』をNHKと同時に3日間にわたって放送。新橋駅西口の街頭テレビに連日2万人以上が詰めかけたため、日本のテレビ初期の看板番組にまでなる。以後力道山の人気はうなぎのぼりとなり、全国的なプロレス旋風が巻き起こる。
春 日本テレビの協力により、日本で初めてのテレビカーを京成電鉄の1600形・1500形で運転開始。京成電鉄のテレビカー車内では日本テレビの番組を放映していた。
10月4日 ニュース番組『きょうの出来事』放送開始(2006年9月29日終了)。
1955年
2月27日 第27回衆議院議員総選挙、日本テレビとして初の選挙開票速報を実施。
1955年
4月1日 資本金を7億5000万円に増資。
5月30日 プロボクシング世界選手権白井義男 – パスカル・ペレス戦を中継。視聴率96.1パーセントを記録。
11月28日 清水与七郎が社長に就任。
1956年
8月19日 午前6時30分、日本初のテレビ早朝放送を開始。画面に初めて時分テロップを入れる。
12月1日 中部日本放送(CBC、現在のCBCテレビ)、大阪テレビ放送(OTV、現在の朝日放送テレビ〈ABCテレビ〉)が開局し、両社とネットワークを形成。
12月31日 精工舎(現・セイコーホールディングス)提供、同局をはじめ民放4社による共同制作の『ゆく年くる年』を放送。
1957年
3月17日 『ミユキ野球教室』放送開始(1990年3月終了)。
4月18日 カラーテレビ放送の免許を申請。
10月24日 – 10月27日 日本初のプロゴルフトーナメント試合テレビ実況生中継を行う。(カナダ・カップ 於:霞ヶ関カンツリー倶楽部)
12月27日 カラーテレビ実験局本免許を取得。
12月28日 カラーテレビ実験局開局(民放初)。
1958年
4月1日 資本金を10億円に増資。
8月28日 開局5周年。番組編成を日本テレビ主体に置いた系列局として、讀賣テレビ放送(YTV)、テレビ西日本(TNC)が開局。先に開局した西日本放送(RNC)も含め、日本テレビの全国ネットワーク体制のさきがけとなる。
10月1日 (株)レクリエーション・センターを合併し、資本金が12億円に。
12月 米RCA社からアンペックス方式の2インチVTRが導入され、単発ドラマシリーズ『雑草の歌』の一編で使用された。これが同局初のVTRドラマとなる。
初のスタジオカラーカメラによる実験放送番組『手品教室』が始まる。
12月25日 東海テレビ放送(THK)が開局。中部日本放送から番組ネットワークを引き継ぐ。

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1959年
3月28日 ネットワークニュース番組『日本テレニュース』スタート。
4月10日 皇太子明仁親王結婚(成婚)。この日、39台のカメラを駆使してテレビ史上に語り継がれる大規模生中継を行う。その後、成婚当日の模様を同局でテレビカメラとは別に35mmカラーフィルムで撮影した物を、午後9時から特番『このよき日』でカラーで放送した。この番組の中では、日本初のカラーCMも放送された。
4月15日 日本初のカラーテレビドラマ『ヤシカゴールデン劇場・赤い陣羽織』放送。
9月15日 同局の株式がマスコミ業界としては初めて東京証券取引所に上場する。
10月24日 毎日放送(MBS)と日本シリーズ中継を共同制作する。
11月中旬 米RCA社から、日本で初めて2インチの放送用カラーVTRを購入する(値段は当時で約3千数百万円であった)。
12月3日 日本初のカラーVTR放送『ペリー・コモ・ショー』(Perry Como’s Kraft Music Hall)(米NBCからダビングされたカラービデオテープを再生)放映。また、局内のスタジオにて、日本初のカラーVTRを使った収録を開始。
12月5日 2日前に、日本国内のスタジオにおける初のカラーVTR収録を行ったドキュメンタリードラマ番組『シャープクライマックス 人生はドラマだ』第9回「ダニエル建・井上」放送。
1960年
6月 テレビ視聴率調査にニールセン方式を採用。
9月10日 カラーテレビ本放送開始(NHK、ラジオ東京(KRT)と共に東京地区では初)。当日、記念番組が4時間に渡って放送される。
1961年
1月8日 大相撲初場所で初のカラー中継放送を開始。
6月4日 『シャボン玉ホリデー』放送開始(1972年10月1日終了)。
1962年 フランス国営放送(RTF)と番組交換協定締結。朝6時台から深夜12時まで切れ目のない全日放送体制が完成。
1962年4月1日 名古屋放送(NBN、現在の名古屋テレビ放送)が開局。東海テレビ放送からネットワークを引き継ぐ。
1963年
1月21日 日本テレビ系列の最長寿ミニ番組『キユーピー3分クッキング』放送開始。
8月28日 開局10周年。
11月22日 通信衛星リレー1号を利用して、日米間で初の白黒テレビの電送実験。放送中にケネディ大統領暗殺事件が発生し急遽別番組を編成。
1964年
9月30日 テレビ西日本がネットワークから離脱。これにより福岡地区の日本テレビ系番組の大半がRKB毎日放送に移動する(1969年3月31日まで)。
10月10日 東京オリンピック開催。これに関する自社制作におけるカラー放送を強化する。
1964年 多摩丘陵・よみうりランド内にカラー公開スタジオ「NTVスタジオ」が完成。
1965年 パキスタンにテレビ受像機200台を寄贈。
1965年11月8日『11PM』放送開始。
1966年
4月1日 NNN(日本ニュースネットワーク)発足。
5月15日 日本テレビ系列の最長寿バラエティー番組『笑点』放送開始。
7月1日 ザ・ビートルズの日本武道館来日公演番組『ザ・ビートルズ日本公演』をカラーで独占中継(VTR録画)し、視聴率は56パーセントに達した。
1966年 世界初、カラーのスポットコマーシャル(日立製作所提供)の放送が開始される。
1967年7月21日 福井近夫が社長に就任。
1967年 ニューヨーク支局を開設。アメリカ・NBC内に特設スタジオを設置し、衛星中継による海外ニュースを放送。
1968年
4月 新宿区に独自の送信所を兼ねた日本最大のテレビ塔建設を発表。(後に計画は中止に)
西本館竣工。
8月28日、開局15周年。
9月30日 『お昼のワイドショー』放送開始。
1969年
4月1日 中京テレビ放送(CTV)、福岡放送(FBS)他全国各地に開局したアナログUHF局とネットワークを組む。福岡放送はRKB毎日放送からネットワークを引き継ぎ、4年半ぶりに福岡地区での日本テレビ系マストバイ局が復活した。
10月9日 当時の会長、正力松太郎が死去。
10月11日 大蔵省の指摘により粉飾決算が発覚。過去数年分の有価証券報告書を訂正。
12月1日 資本金を24億円に増資。
コンピュータ導入(第1世代APM)で本格的な番組運行自動化を開始。
1970年
1月4日 『NNNドキュメント』放送開始。
5月29日 小林與三次が社長に就任し、読売色が一層強まる。
この頃より対外的に使用する社旗を、青地に社章(「NTV」ロゴを丸で囲った物)を白く抜いた物より、読売新聞の社旗を模した上から緑・赤・青色の模様の旗に変更。
10月4日 日本テレビ系列の最長寿紀行番組『遠くへ行きたい』の放送開始。
11月10日 同局の送信所を、麹町の本社社屋に隣接したテレビ塔から東京タワーに移行。
那覇、ワシントン、モスクワ、ソウルに各支局を開設。世界ネットを強化。
1971年 全国高校サッカー選手権大会を毎日新聞社に代わって主催し、独占中継権を得る。自社制作の番組のカラー化率がほぼ100パーセントに達する(日本の民放初)。
1971年10月23日 日本テレビ系列の最長寿アニメ番組『ルパン三世』シリーズ(『ルパン三世 (TV第1シリーズ)』)放送開始。
1972年
5月23日 朝鮮中央放送委員会とテレビフィルムを定期交換する協定に調印
6月14日 系列18社によるNNS(日本テレビネットワーク協議会)発足。当時のネット局である名古屋放送(名古屋テレビ、NBN)と番組編成を巡って係争。この結果、12月に東海地区のテレビネットを中京テレビ放送(CTV)へ翌年4月1日付で一本化することに決定(CTV開局後もNBNと2局並列でクロスネット加盟=当時CTVはNET中心の編成=であった)。