【古写真関連資料】日活設立と関わった写真師・梅屋庄吉、鈴木經勲

後藤猛太郎
後藤猛太郎(wikipedia)

鈴木經勲
1883年、マーシャル諸島(ラエー環礁)に漂着した日本人船員が現地人に殺害される事件が起こり、後藤猛太郎(日本活動フィルム(日活)の初代社長。後藤象二郎の二男。貴族院議員。伯爵)とともに南洋行きを命じられた。

梅屋庄吉
明治45年、横田永之助(映画製作者、映画興行師、のち京都商工会議所会頭)らと日本活動写真株式会社(日活)を設立。自らは取締役に就任し、日本映画界の元祖となる。大正2年、日活取締役を辞任。

◆日本活動冩眞株式會社
日活株式会社は、日本の映画製作、配給会社である。社名は創立時の名称である「日本活動冩眞株式會社」の略称に由来する。1912年(明治45年)3月、国家当局の要請を受けた京都横田商会の横田栄之助の尽力により、資本金1000万円をもとに横田商会、吉沢商店、福宝堂、エム・パテー商会の国産活動写真商社4社が合併して「日本活動フィルム株式會社」として創立(初代社長は後藤猛太郎)。この「日本活動フィルム株式會社」は、株式市場で「活フイ」と略称されたため、「これから発展しようという会社が“フイ”になってはいかん」と社長の後藤猛太郎が[要出典]縁起を担ぎ、元号が大正へと変わった後の9月10日に、社名を「日本活動冩眞株式會社」と改称し、略称を「日活」とした。以後、時代劇の名門映画会社として、京都の撮影所で尾上松之助を看板スターとした。1913年(大正2年)、東京向島水神に、ガラスステージを備えた現代劇(新派)の撮影所を建設。1914年(大正3年)10月、ロシア文学を原作とする『復活』が公開され大ヒット。女弁士が「カチューシャの唄」を歌い、大評判となった。現代劇映画だったが、カチューシャ役は歌舞伎の女形役者である立花貞二郎が演じるものであり、まだ映画女優は存在しなかった。病弱だった立花が死去すると、向島撮影所では大阪の舞台から東猛夫を招いて女役に当たらせるが、やがて「写実を本位とする映画劇に女形は不適当である」との声が高まり、舞台女優中山歌子が「映画女優」として加入することとなる。1922年(大正11年)、この年暮に向島撮影所の女形を交えた新派役者10数人が、国活(国際活映)に移籍。日活はこれを機に向島から女形を一掃、新劇の舞台協会と提携して「ピカ一スタア」と呼ばれた岡田嘉子を時代劇女優に迎え、ほかに瀬川つる子ほか数人の女優に加え、溝口健二、阿部豊ら新進監督が腕を振るい始める。1926年(大正15年)、尾上松之助が死去。以後京都撮影所では、山本嘉一、河部五郎、大河内傳次郎らが人気を博すが、サイレントからトーキーに移行した辺りに日活を去り、独立プロを追われた阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、入江たか子らが参入。この時期業績が下降し、経営権を巡る争奪戦が勃発。東宝・松竹両社が株式の相当数を抑え、かつ両社から一定数の重役を迎えるなど両属状態に陥った。1942年(昭和17年)、戦時統合により製作部門が切り離され、新興キネマ・大都映画とともに大映(大日本映画製作株式会社)に移管、映画製作から一旦撤退。業績の良かった配給部門だけが残った。

◆後藤 猛太郎
明治時代、日本で初めて南洋群島を探検した人物。日本活動フィルム会社(日活の前身)の初代社長。後藤象二郎の二男。貴族院議員。伯爵。「天下のならず者」と自称していた。1863年(文久3年)、土佐藩士(上士・馬廻格)後藤象二郎の二男として、高知城下に生まれる。母は寺田剛正(左右馬)の二女(磯子)。象二郎の長男の後藤貞馬が夭逝した為、猛太郎は、事実上の長男として育てられた。1870年(明治3年)、8歳より外国人宅に出入りして外国語を学ぶ。オランダへ留学するが、放蕩して多額の借金を負ったことなどから、1888年(明治21年)6月、父・象二郎から廃嫡・分籍を受け、佐藤の姓を名乗らされた。1896年(明治29年)、改心の傾向がみられるとして勘当を許され、復籍した。外務卿井上馨の助力によって、外務省御用掛で通訳官となる。1884年(明治17年)、「南洋ミクロネシアのマーシャル諸島内の「ラエー環礁」において、日本人漂着者が現地人に殺害され食べられたらしい」という情報がイギリス捕鯨船からもたらされたことにより、後藤猛太郎と鈴木経勲が、南洋漂流邦人殺害事件の調査に派遣される。イギリス捕鯨船の「エーダ号」に乗ってマーシャル諸島に辿りつき、現地のカブワ・ラーボン大酋長に謁見して調査目的を説明し、日本人漂流者が殺害されたと言われるラエ島で調査を行う。その後マーシャル諸島の日本領有を独断で宣言し、現地に日章旗を建てるとともに、殺害犯としてラエ島のキン・ラリエ酋長(一説には酋長の代理人)ら2名を逮捕して横浜に連行する(ただし、マーシャル諸島の領有宣言は、国際問題となることを疎んだ日本政府によって却下される)。新潟で銅山を経営し、新潟の芸妓との間に長男後藤保弥太が生まれる。その後、銅山経営が破綻し、当時36万円の負債をかかえ、親友の杉山茂丸邸に居候する。1897年(明治30年)8月4日、父象二郎が薨去したため、襲爵(伯爵)を仰せ付けられる。1897年(明治30年)12月、品川馬車鉄道会社を設立し、その社長となる。 1899年(明治32年)6月19日、品川馬車鉄道が東京馬車鉄道に吸収合併される。台湾に渡り、後藤新平の私設秘書となる。1912年(明治45年)3月、日本活動フィルム株式会社(日活の前身)を設立してその初代社長となる。1912年(明治45年)9月10日、株式市場で「活フイ」と略称されたため、「これから発展しようという会社が“フイ”になってはいかん」と縁起を担ぎ、社名を「日本活動冩眞株式會社」と改名。略称「日活」とした。1913年(大正2年)薨去。享年51。

◆横田 永之助
日本の映画製作者、映画興行師、実業家。日本映画草創期において、日本で初めて輸入されたシネマトグラフの関東興行を行い、その後横田商会を設立して全国で活動写真の巡回興行をした。やがて劇映画の製作も行い、牧野省三・尾上松之助を世に送った。横田商会が他社との合併で日活となると、創立時から同社重役となり、1927年(昭和2年)に社長に就任した。ほか京都商工会議所会頭なども歴任。1872年6月3日(明治5年4月28日)、京都府京都市岡崎町(現在の左京区岡崎)に、華頂宮の旧臣である横田摂津守豊成の3男として生まれる。兄に実業家の横田万寿之助がいる。13歳の時に上京し、杉浦重剛の称好塾に学ぶ。この頃の同窓には巖谷小波、江見水蔭、大町桂月、太田政弘らがいた。その後東京高等商業学校(現一橋大学)予科に入学し、19歳の時に卒業して渡米。サンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジに入学し、3年間商業を学んだ後、22歳の時に帰国する。1893年(明治26年)、アメリカで開催されたシカゴ・コロンブス万国博覧会に京都府の出品委員として再渡米し、X光線が珍しがられていたのを見て、これを土産として持ち帰り、京阪地方で見世物として興行する。その後、神戸の内外物産貿易に入社する。1897年(明治30年)、兄の万寿之助の紹介で稲畑勝太郎と知り合い、彼が輸入したシネマトグラフの興行を引き受ける。万寿之助と稲畑は、1877年(明治10年)に京都府の海外留学生として共にフランスに渡り、それ以来別懇の間柄であった。関西ではすでに稲畑がシネマトグラフ興行を行っていたため、横田は同年2月末に上京して関東方面で興行を行う。最初は錦輝館での興行を予定したが、ちょうど3月6日から新居商会によってヴァイタスコープによる興行が行われることになり、錦輝館の借用を断られた。次に浅草公園第六区に天幕張りの小屋を設け、シネマトグラフ館と名付けて開場するも、急設の天幕張り会場では電燈会社が電力を供給してくれないため、再び会場を選定した結果、3月8日に神田の川上座を借りて興行を行う。入場料を8銭均一にしたため興行の評判はよく、3月28日まで同座で打ち通した。川上座興行が終わると浅草の方とも話し合いがつき、仏国幻画協会を名乗り、浅草公園にバラック建てのシネマトグラフ館を建てて、4月1日から興行を始めた。1900年(明治33年)、パリ万国博覧会で京都府の出品委員として派遣され、その際に発展をとげているフランスの映画事業に大きな衝撃を受けて、パテ社との間にフィルム購入の契約を結び、ゴーモン映写機と数種のフィルムを持ち帰って帰国する。帰国第1回の興行は、同年8月16日から東京・新富座で行い、パリから持ち帰った英杜戦争やパリ万国博覧会の実況映画を公開した。また、フランスから帰国する際、船上で知り合った当時の第1師団参謀長・神尾光臣の紹介で、各地の師団に紹介状を書いてもらい、兵士の団体鑑賞を動員し、兵営での出張映写も行う。さらに恩師の杉浦重剛を介して江原素六の紹介で、全国の学校も巡回した。その後、巡回興行隊を組織してパテ社から輸入したフィルムを持って地方を巡業する。日露戦争が勃発した頃は、パテ社から日露戦争の実況映画を輸入し、それと共に『ナポレオン一代記』などの劇的内容を持つ活動写真も入るようになって事業も活気づき、11の巡業班を組織して全国を巡回した。横田自身も自ら説明者となって各地の巡業班を督励して歩いた。横田兄弟商会や京都活動写真会、戦時活動写真と名乗っていた巡業班が、横田商会の名で統一されたのもこの頃である。1908年(明治41年)頃から横田商会は自社で活動写真を作るようになり、同年6月公開の『いもりの黒焼』が同商会の劇映画第1作となる。同年9月に千本座の座主だった牧野省三に映画製作を依頼し、同座の俳優を使って旧劇映画『本能寺合戦』を製作。翌1909年(明治42年)には尾上松之助を起用して『碁盤忠信 源氏礎』を製作し、以降、牧野監督・尾上主演で多数の時代劇映画を製作する。1910年(明治43年)7月には京都初の撮影所である二条城撮影所を、二条城西南櫓の西側に設立する。1912年(明治45年)9月、横田商会は福宝堂、吉沢商店、M・パテー商会とのトラスト合併で日本活動写真株式会社(日活)となり、横田は取締役に就任する。しかし、1914年(大正3年)には経営難に遭い、横田は常務に就任して、資本金を4分の1に減資するという緊縮政策で解散の危機を免れた。その後は、横田が社の実権を握り、副社長等を歴任。1927年(昭和2年)9月9日、社長に就任する。同年10月10日、緑綬褒章を受章。1928年(昭和3年)、賞勲局総裁の天岡直嘉が叙勲を得ようとする実業家から収賄した売勲事件で、横田も天岡に1000円を提供して勲五等に叙せられていたことが判明して9月18日に収容されるが、罰金300円で即日釈放された。1932年(昭和7年)、社長を退任し、相談役に就任する。1943年(昭和18年)3月29日、死去。70歳没。墓は知恩院。

◆横田商會
かつて京都に存在した日本の映画会社。日本最古の映画会社のひとつであり、「日本映画の父」こと牧野省三に最初に映画製作を依頼した企業であり、日活を構成する前身4社のうち1社として映画史にその名を残す。オーギュスト・リュミエールから2台の「シネマトグラフ」を購入していたリュミエールの同窓生・稲畑勝太郎は、1897年(明治30年)2月15日に大阪の南地演舞場(のちの南街会館)で初めてのシネマトグラフ興行を行い、友人の高木永之助(のちの横田永之助、以下横田)に関西での興行を託すが、横田はその興行からはいったん離れている。1900年(明治33年)、横田は稲畑、兄の横田万寿之助とともに、パリ万国博覧会を視察し、新たにシネマトグラフを持ち帰り、ふたたびシネマトグラフの興行を始める。1903年(明治36年)6月、横田は兄とともに、京都に「横田兄弟商会」を開業、のちに「横田商会」と改称する。同月、新京極の芝居小屋「夷谷座」でフランスから輸入したドキュメンタリーフィルムを公開する。1905年(明治38年)、神泉苑に現像場を開設、自社での現像を開始する。1907年(明治40年)3月、大阪「角座」と東京・神田区の「錦輝館」と特約を結び、ここでの映画興行を始め、同年7月7日、大阪の千日前に、浅草についで国内2館目、関西初の映画専門劇場「千日前電気館」をオープンした[1]。1908年(明治41年)6月、同社のドキュメンタリー映画『韓国観』の撮影技師・福井繁一を監督に起用し、同社初の劇映画『いもりの黒焼』を製作、同作を同月25日に公開した。さらに、同社が京都で映画興行を行っていた先の「千本座」を経営する牧野省三に映画製作を依頼、牧野はこれを引き受け、「日本初の時代劇映画」と呼ばれる『本能寺合戦』を監督、同作は、中村福之助、嵐璃徳を主演に小川真喜多がカメラを回し、同年9月17日に神田「錦輝館」などで公開された。同社はまだ撮影所をもっていなかった。1910年(明治43年)7月、二条城至近の押小路女学校通西北角に同社初の撮影所をオープン、「横田商会二条城撮影所」とした。これは日本映画史上で4サイト目の撮影所である。また同年、牧野が尾上松之助を発見、『碁盤忠信源氏礎』の主演に抜擢、日本初の映画スターが生まれた。1912年(明治45年)1月、御前通一条下ルにグラスステージをもつ「横田商会法華堂撮影所」を新たにオープン、二条城撮影所は機能を移転して閉鎖した。同年(大正元年)9月、福宝堂、吉沢商店、M・パテー商会との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)を設立した。「法華堂撮影所」は「日活関西撮影所」として引き継がれ、横田はのちに日活の社長に就任した。