
宮内幸太郎の写真館に住み込みで技術を学んだ。
◆土門 拳
昭和時代に活躍した日本の写真家である。リアリズムに立脚する報道写真、日本の著名人や庶民などのポートレートやスナップ写真、寺院、仏像などの伝統文化財を撮影し、第二次世界大戦後の日本を代表する写真家の一人とされる。また、日本の写真界で屈指の名文家としても知られた。
1909年10月25日 – 山形県飽海郡酒田町鷹町(現・酒田市相生町)に父熊造、母とみえの長男として誕生。
1916年 – 一家で東京へ移住。
1917年 – 麻布区飯倉小学校に入学。
1918年 – 一家で横浜市磯子区へ移転、磯子小学校へ編入。
1921年 – 一家で同市の神奈川区へ移転、二ッ谷小学校へ編入。絵画を描きはじめる。
1926年 – 土門が描いた十五号の薔薇の油彩が横浜美術展覧会で入選。審査員は安井曾太郎。
1927年 – 考古学に興味を持ち、学校の周囲で土器や石器掘りに熱中する。
1928年 – 旧制神奈川県立第二中学校(現・神奈川県立横浜翠嵐高等学校)卒業。日本大学専門部法科に進学するが中退、逓信省の倉庫用務員になる。
1929年 – 三味線に熱中し、常盤津の師匠に弟子入りする。
1932年 – 農民運動に参加し、検挙される。
1933年 – 遠縁にあたる 宮内幸太郎 の写真場に内弟子として住み込み、写真の基礎を学ぶ。
1935年 – 8月1日に電車内であくびをする幼い兄弟をダゴール付きアンゴー8×10.5cm(手札)判でスナップ撮影した「アーアー」が『アサヒカメラ』10月号で月例第一部(初心者)二等に初入選した。またその号に出ていた名取洋之助主宰の第2次日本工房の求人広告に応募、名取のもとで報道写真を撮り始めた。
1936年 – 日本工房発行の欧文雑誌『NIPPON』の記事作成のため、伊豆を取材。この時撮影した「伊豆の週末」や、「かんじっこ」などは、初期の土門の傑作に数えられる。
1937年 – 早稲田大学の卒業アルバムの写真撮影を担当。これは実質的に土門の初めての作品集となる。なお同書は2009年に復刻された。
1938年 – 土門が撮影した、当時の外務大臣・宇垣一成のルポルタージュ、「日曜日の宇垣さん」が、「婦人画報」の9月号と、アメリカのグラフ誌「ライフ」9月5日号に掲載される。濱谷浩、藤本四八、光墨弘、田村茂、林忠彦、加藤恭平、杉山吉良らと「青年報道写真研究会」を結成。
1939年 – 著作権の取り扱いをめぐって名取と対立し、日本工房を退社。美術評論家、水澤澄夫の案内で初めて室生寺を撮影。
1941年 – 文楽の撮影を開始する。徴兵検査を受けるが不合格となり帰郷。
1943年 – 写真雑誌「写真文化」(石津良介編集長)に掲載した人物写真に対してアルス写真文化賞受賞。荻原守衛の彫刻作品を撮影する。
1946年 – 戦後はじめてとなる古寺の撮影を開始する。
1949年 – 写真雑誌「カメラ」の企画で桑原甲子雄編集長とともに大阪、中国地方の旅に出る。大阪でははじめて安井仲治のオリジナルプリントの作品にふれる。鳥取では植田正治らと撮影会をおこなう。
1950年 – 木村伊兵衛とともに「カメラ 」誌の月例写真審査員になり、リアリズム写真を提唱。また木村とともに三木淳の結成した「集団フォト」の顧問になる。

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土門拳が撮影した十一代目 市川團十郎「海老さま」(1951年)
1953年 – 江東区の子どもたちを撮りはじめる。写真集『風貌』(アルス社)刊行。このころからカラーフィルムを使いはじめる。
1954年 – 写真集『室生寺』(美術出版社)刊行。
1957年 – 広島を取材。
1958年 – 写真集『ヒロシマ』(研光社)刊行。同社のカメラ誌「フォトアート」月例審査員を1963年まで断続的に務める。
1959年 – 筑豊炭鉱労働者を取材する。
1960年 – 写真集『筑豊のこどもたち』(パトリア書店)を100円で刊行。続編『るみえちゃんはお父さんが死んだ』(研光社)を完成直後、脳出血を発症。回復後、ライフワークとなる大型カメラによる『古寺巡礼』の撮影を開始。古美術商の近藤金吾の知己を得、骨董に興味を持つ。
1961年 – 「芸術新潮」に『私の美学』を連載。
1962年 – 装幀家菅野梅三郎との交流がきっかけとなり古陶磁の撮影を始める。
1963年 – 写真集『古寺巡礼』第一集(美術出版社)を刊行。7月に創刊された平凡社の雑誌「太陽」の連載記事「日本のあけぼの」の写真を手がける。後年『日本人の原像』として単行本化。
1964年 – 京都の東寺(教王護国寺)を撮影する。
1965年 – 写真集『信楽大壺』(東京中日新聞社)、『古寺巡礼』第二集(美術出版社)、『大師のみてら 東寺』(東寺保存会 非売品)刊行。
1966年 – 草柳大蔵とのコンビで、平凡社「太陽」に『日本名匠伝』を連載。土門が撮影を担当した勅使河原蒼風の作品集「私の花」(講談社)刊行。考古学研究書『日本人の原像』(平凡社)刊行。芹沢長介と坪井清足がテキストを執筆、福沢一郎が挿画、土門が写真を担当した。同年、日本リアリズム写真集団の顧問に就任。
1967年 – 1月秋田県木地山のこけし職人小椋久太郎を撮影する。『太陽』の依頼で2月と6月の二回にわたり屋久島を訪れ、藪椿や石楠花を撮影。同じく3月に東大寺二月堂のお水取りを撮影。11月には羽田闘争を撮影(最後の報道写真)する。
1968年 – 前年に取材した東大寺のお水取りの模様が平凡社「太陽」1月号に特集記事として掲載される。10年ぶりに再び広島を取材。写真展「失意と憎悪の日々-ヒロシマはつづいている」を開催。写真集『古寺巡礼』第三集(美術出版社)刊行。6月、雑誌「太陽」の取材で滞在していた山口県萩市で二度目の脳出血を発症し九州大学付属病院に緊急入院。右半身不随となるが、左手で水彩画を描いたりしてリハビリテーションに励む。撮影は助手として同行していた弟の牧直視が引き継ぎ、同誌の9月号に特集記事として掲載される。なお、写真のクレジットは牧直視名義となっており、土門の作品が使用されているかは不明。
1969年 – 6月、長野県鹿教湯温泉にある東京大学療養所に転院。リハビリテーションを続ける。
1970年 – 車椅子にて撮影を再開。風景写真を数多く撮る。
1971年 – 写真集『古寺巡礼』第四集(美術出版社)、『薬師寺』(毎日新聞社)、『荻原守衛』(筑摩書房)刊行。『古寺巡礼』の業績に対し第19回菊池寛賞受賞。
1972年 – 写真集『文楽』(駸々堂)刊行。本書のテキストは武智鉄二が担当。
1973年 – 写真集『東大寺』(平凡社)刊行。平凡社「太陽」に『骨董夜話』を連載。
1974年 – 写真集『古窯遍歴』(矢来書院)、『日本名匠伝』(駸々堂)を刊行。初めての随筆集『死ぬことと生きること』正・続(築地書館)刊行。紫綬褒章受章。酒田市の名誉市民第一号となる。
1975年 – 写真集『古寺巡礼』第五集(美術出版社)、『私の美学』(駸々堂)、随筆集『骨董夜話』(共著、平凡社)刊行。
1976年 – 初めての風景写真集『風景』(矢来書院)刊行。写真集『子どもたち』(ニッコールクラブ 非売品)、写真論集『写真作法』(ダヴィッド社)刊行。5月より箱根 彫刻の森美術館の野外彫刻の撮影を始める。
1977年 – 日本経済新聞に25回にわたって「私の履歴書」を連載。随筆集『三人三様』(共著、講談社)刊行。写真集『土門拳自選作品集』全三巻(世界文化社)を翌年にかけて刊行。
1978年 – 3月、初めて雪景の室生寺を撮影。またこの時初めてストロボを使用する。写真集『女人高野室生寺』(美術出版社)、『日本の美』(伊藤ハム栄養食品 非売品)、『生きているヒロシマ』(築地書館)刊行。カメラ誌の月例審査をまとめた『写真批評』(ダヴィッド社)刊行。
1979年 – 写真集『現代彫刻』(サンケイ新聞社)、随筆集『写真随筆』(ダヴィッド社)刊行。7月に生前最期の撮影地となった福井県丹生郡にて越前甕墓や越前海岸などを撮影。これらの写真は「カメラ毎日」1979年11月号などに掲載された。9月11日に脳血栓を発症、昏睡状態となる。
1980年 – 勲四等旭日小綬章受章。
1990年 – 9月15日、11年間の昏睡状態を経て、入院先の東京都港区虎の門病院で心不全のため死去。