【古写真関連資料】江木写真館と、江木鰐水・江木高遠

江木 鰐水

◆江木 鰐水
写真師となった江木保男江木松四郎の父

江戸時代後期から明治期の備後福山藩(現広島県)の儒学者、洋学者、開港論者。藩校誠之館教授・医者・備後福山藩儒官。名は□(ゆき)字は晋戈(しんか)。通称は繁太郎。号は健斎・三鹿斎。文化7年12月22日(1811年1月16日)安芸国豊田郡戸野村(現広島県東広島市河内町戸野)の庄屋福原与曽八(藤右衛門貞章)の三男として生まれる。

文化12年(1815年)6歳のとき父を亡くす。福山藩医・五十川菽斎(いかがわしゅくさい)および篠崎小竹に師事。福山藩医・江木玄朴の家を継ぎ江木を名乗るも、医術を好まず。文政8年(1825年)ころ儒医・野坂完山に師事。天保元年(1830年)京都に出て頼山陽に師事し儒学を学ぶ。山陽没後、天保4年(1833年)大坂で篠崎小竹に師事し儒学を修める。天保6年(1835年)江戸で古賀侗庵(こがとうあん)に師事。また清水赤城に長沼流兵法を学ぶ。

天保8年(1837年)福山藩主・阿部正弘に抜擢され藩校の講書となり、のち天保12年(1841年)福山藩儒官となる。弘化2年(1845年)阿部正弘が老中になると、政治顧問となる。安政2年(1855年)福山誠之館が創られ兵学を講義。この頃より長沼流は時勢に合わぬとの考えから、訳書からの独学による西洋兵学を講義し、兵制の改革を建白した。安政4年(1857年)阿部正弘の没後は、阿部正教・阿部正方・阿部正桓の3代に仕えた。元治元年(1864年)と慶応元年(1865年)の長州征討に出陣し、明治元年(1868年)の戊辰戦争では箱館戦争にも参加、参謀となる。維新後は福山の治山治水・殖産に尽力。明治10年(1877年)一家をあげて東京に移った後、明治14年(1881年)10月8日に死去、享年72。著書に「山陽行状」「孫子註」「仰高芳蹟」「客窓漫録」などがある。子に江木高遠、江木保男(安政3年5月生)、江木松四郎(同年11月生)らがいる。

保男(1856-1898)は中江兆民が開いた仏学塾から司法省訳官を経て三井物産に在籍、1878年のパリ万国博覧会に出向き、郵便報知新聞社に博覧会記事を寄稿したのをはじめ、明治13年(1880)には米国よりソーラーカメラ、写真引伸器械を輸入して写真業を始め、日本の写真撮影術の先覚者となった。1883年にはアムステルダム国際植民地貿易博覧会(en:International Colonial and Export Exhibition)に出張して海外の商業事情を視察し、明治17年(1884)にはサンフランシスコで写真術を学んできた弟の松四郎とともに神田淡路町に江木写真店を開設、のちに新橋にも支店を構えた。政府の内命を受けてシベリアや欧州で日本食品の売り込み交渉にも当たったほか、米国、中国、朝鮮にも足を運び海外事情に通じた貿易商としても知られた。父・鰐水の門人で官僚の鶴田皓の娘・蝶子と結婚し、長男・江木定男をもうけたが蝶子が早世したため、愛媛県知事の関新平の娘・悦子(関場不二彦元妻)と再婚した。

定男(1886-1922)は一高から東京帝大に進学し、在学中の1907年に継母・悦子の妹である万世と結婚し、娘の妙子(猪谷善一妻)と、江木文彦(生活評論家)・江木武彦の双子の男児をもうけた。万世は美貌の誉れ高く(切手にもなった鏑木清方の美人画「築地明石町」のモデルを41歳で務めた)、定男は衣食に贅沢で書画骨董に親しみ、弁舌爽やかで機智に富み、華やかで誰からも好かれる人物で、実家の経済力を背景に豊かな結婚生活を送った。大学卒業後定男は農商務省官吏となり、サンフランシスコ万国博覧会の日本館監督の一人として1年間滞米して帰国したが、健康を害し35歳で早世した。幕末に「黒船」と呼ばれた米艦隊を率いて来航したペリー提督らの様子を記した文書が、広島県福山市の県立歴史博物館に残っている。鰐水の手紙を写したものと推定され、ペリーの穏やかな物腰や乗組員がおどけて踊る様子、黒船の大砲や消防ポンプなどが描写されている。

これは福山市の旧家・窪田家から同博物館に寄託されていた文書で、50ページほどのうち16ページにペリーらに関する記載がある。江木が友人の儒学者に送った手紙を、その弟子で医師の窪田次郎が書き写し、窪田家に残されたものとされている。1854年(嘉永7)年2月13日、ペリーが2度目に来航した際、軍学が専門の江木は一行の応接係だった奉行の家臣という名目で、同26日、横浜の応接所で一行と面会した。江戸幕府老中で福山藩主の阿部正弘の命を受け、応接係に随行したとみられる。

江木は「彼理(ペリー)ハ深沈トシテ 二度程笑ヒテ黙々トシテ居タリ 音色モ温ナリ」と、ペリーが物静かで、態度も穏やかだったと記述。副官(参謀長)のアダムスについては「軽率ニ見エ終始笑ヒテ」と記し、ペリーとは逆に良くない印象だったとみられる。また、ペリーらに日本食を出したところ、吸い物は好まなかったが、塩をかけたカキや卵、菓子を好み、余興の力士による相撲を珍しがったという。同29日に江木らは、旗艦ポーハタン号に乗船。酒食をもてなされたが、あまり口に合わず、乗組員が顔に墨を塗って踊るのを見せられ「拙キ事ナリ」と酷評した。しかし、そうした娯楽の拙さは、軍備に力を入れているからではないかと米国への恐れも述べている。

◆江木高遠
写真師となった江木保男江木松四郎の兄。

文明開化期の学者、啓蒙家、外務官僚。養子に入り、『高戸賞士』を名乗った時期があった。備後福山藩の儒官、江木鰐水の第四子として福山に生まれた。幼名は賞士、通称は賞一郎。母は、年(とし)。

1856年(安政3年)(7歳)、藩校誠之館に入り、1868年(明治元年)(19歳)秋、長崎でフルベッキに学び、翌年、藩の推薦により東京の開成学校に転じ、明治2年(1869年)に慶應義塾に学んだ。1870年(明治3年)(21歳)、華頂宮博経親王の随員の一人としてニューヨークへ渡り、コロンビア法律学校(Columbia Law School)に学んだが、1872年、病気の親王と帰国し、1874年再渡米して、1876年卒業した。その間の1875年、専修大学の母体、『日本法律会社』の結成に関わった。

1877年(明治10年)、東京英語学校教諭、次いでその後身の東京大学予備門の教諭を勤める。そのかたわら、啓蒙講演会の組織的運営を企画、1878年6月30日、『なまいき新聞』発刊記念講演として、浅草に500人を超す客を集め、考古学と大森貝塚発掘に関するエドワード・S・モースの講演会を開き、江木が通訳した。

1878年9月21日、会費制の『江木学校講談会』を発足させた。社員(常任講師)として、外山正一、福沢諭吉、西周、河津祐之(後の東京法学校校長)、藤田茂吉(生意気新聞主筆)、モースが名を連ねた。この講談会は1879年10月まで30回近く催され、常任講師のほかに、長谷川泰(日本医科大学の前身『済生学舎』の創設者)、沼間守一、島地黙雷、菊池大麓、大内青巒、トマス・メンデンホール、加藤弘之、杉享二(統計局長)、アーネスト・フェノロサ、小野梓、辻新次(教育行政家)、中村正直、佐藤百太郎、島田三郎、林正明(政治評論家)、金子堅太郎、田口卯吉、長岡護美なども、登壇した。この講談会には郵便報知新聞も関係したとされる。1879年12月、外務省書記官になる。1880年(明治13年)1月の交詢社の発足に際して、創立事務委員として参画したが、定議員への就任は渡米予定のため辞退。1880年3月、帰任の吉田清成駐米大使に随行してワシントンに赴任したが、6月6日に自殺した。享年31。墓は谷中墓地にある。