
◆古町芸妓
新潟県新潟市中央区古町を拠点とする芸妓。 最盛期には約400人の芸妓が活動し、京都の祇園、東京の新橋の芸妓と並び称されていた。古町芸妓の起源は、元和2年(1616年)から存在した「新潟遊女」であると言われている。江戸時代の後期に、市山流三代目市山七十朗に師事する「とし(味方ねん)」が市山姓を受け、四代目市山七十世となるなど、のちの古町芸妓の隆盛の胎動をはじめる。明治時代次代は明治となり、新潟港が開港。明治13年(1880年)に四代目市山七十世が遊芸師匠として古町通8番町の貸座敷五泉屋の広間を借りて指導、「五泉屋きち」が最初の弟子となる。その翌年の明治14年(1881年)8月には、九代目市川團十郎を流祖とする市川流の名取となって「市川流市川登根」の看板を掲げていた舞踊師匠市川登根が、古町通1番町新明神社で門弟氏名を記録した桐板の額を献額する式を挙げるなど、二人の舞踊師匠が互いの舞踊を研鑽する時代が幕を開ける。明治18年(1885年)9月7日、新潟県南魚沼郡塩沢町の清水峠から関東に通じる国道「清水越え新道」が開通。新潟県令篠崎五郎が開通式終了後に参列した北白川宮能久をはじめ、山県有朋内務卿ら一行を新潟区白山公園内階楽館に招待。その余興として古町の雛妓8人による御前演舞が行われ、その翌年の明治19年(1886年)8月、初代萬代橋が開通。四代目市山七十世がこれを祝って作った曲である「新潟十景の内-渡り初め開化の賑ひ-」を披露する。その後まもなく「庄内屋しん」が柳原前光に身請けされ、後藤象二郎長男の猛太郎の妻である古町芸妓出身の「三会るん」が伯爵夫人となるなど話題で新潟の界隈をわかせ、古町の芸妓の人気が過熱する。大正時代大正の時代となり、新潟新聞社が新潟花街約300人の中から「新潟十美人」を選定する投票が開催。市山流四代目市川七十世の孫である川田亀が、五代目市川七十世を襲名。市川流市川登根の孫で、藤間流藤間勘右衛門に師事していた会田力子が「藤間小藤」に、藤間小藤の妹で、藤間勘八の内弟子となっていた会田仲子が「藤間仲子」の名取名を許されて帰郷。市川登根の生前からの願いと師匠筋の了解を得て「市川仲子」となる中で、市川流市川登根、市山流四代目市川七十世が相次いで逝去するなど、古町の芸妓は新しい時代を迎えることとなる。大正9年(1920年)9月11日。古町芸妓の「庄内屋八重」であった藤間静江(のちの藤蔭静樹)が、新潟劇場で「藤蔭会第七回新潟公演」を開催。そして、大正15年(1926年5月10日から12日に新潟市で「全国料理飲食店業同盟会第26回大会」が開催。2日目の余興に市川流(藤間連)の舞踊、3日目の余興に市山流の「連獅子」、「新潟八景」、「舟江名物盆踊り」が披露されるなど、新潟の花柳界はその勢いを強めていく。昭和時代昭和の時代になっても大正時代の勢いは衰えることは無く、昭和8年(1933年)、市山流が東京明治座で「市山研踊会東京公演」を開催。そして、昭和10年(1935年)11月7日から10日にかけて、新潟市産業組合が新潟花街の総力を結集した「舟江をどり」を開催。振り付けは市山流五代目市川七十世と市川流市川仲子が担当する。しかし、昭和11年(1936年)の二・二六事件の発生と日独防共協定の締結、昭和12年(1937年)の日中戦争の勃発などにより1回の開催で中止となってしまう。その後の盧溝橋事件。真珠湾攻撃で太平洋戦争(大東亜戦争)が開戦。「決戦非常措置要綱」により、芸妓置屋や芸妓などが休業。芸妓連、女子挺身隊員として作業に従事することとなる。昭和中期の昭和34年(1959年)に市川流市川仲子が逝去。新潟藤間流門下名取一同の協議により、藤間茂藤が西堀通8番町に稽古場を開き、希望者の指導にあたるが、昭和41年(1966年)古町芸妓の人数が168名に、そして、昭和45年(1970年)に古町芸妓の人数が136名に減少。昭和43年以降、振袖希望者が0人になる。昭和の後記(昭和50年代以降)になると、古町芸妓の人数が110名に減少する。また、昭和58年(1983年)に市川流藤間小藤が逝去したことにより、新潟における市川流の系統が断絶する。 昭和60年代に入り、古町芸妓の人数が60名となり。最年少の芸妓が36歳、平均年齢が53歳と高齢化する。そうした状況の中、昭和62年(1987年)、芸妓出入りの料理屋や財界人の出資により「柳都振興株式会社」が設立される。
◆写真師・朝倉M