
◆東京都電車
東京都地方公営企業の設置等に関する条例及び東京都電車条例に基き東京都(交通局)が経営する路面電車である。通称都電(とでん)。2017年10月現在、荒川区の三ノ輪橋停留場と新宿区の早稲田停留場を結ぶ荒川線12.2kmの1路線のみが運行されている。
前身は1882年に開業した東京馬車鉄道で、1903年から1904年にかけて同社が路線を電化して誕生した東京電車鉄道、新規開業の東京市街鉄道、東京電気鉄道の3社によって相次いで路面電車が建設された。その後3社は1909年に合併して東京鉄道となり、さらに1911年に当時の東京市が同社を買収して東京市電、1943年の東京都制施行によって都電となった。
最盛期(1955年頃)には営業キロ約213km、40の運転系統を擁し一日約175万人が利用する日本最大の路面電車であったが、モータリゼーションの進展や帝都高速度交通営団(営団地下鉄)、東京都交通局の都営地下鉄の発達によって採算性が悪化していった。1967年に東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年までに廃止されることになったが、1974年に荒川線の恒久的な存続が決定し今日に至っている。
東京では1872年(明治4 – 5年)頃から「円太郎馬車」と呼ばれる乗合馬車の運行が始まり、1882年(明治15年)6月25日には日本初の民間資本による鉄道会社である東京馬車鉄道が新橋 – 日本橋間で開業した。同社はその後品川と上野・浅草を結ぶ全長約16kmの路線を開業させ、1902年(明治35年)末には軌道延長33.6km、客車300両、馬匹2000頭を擁する規模に成長した。しかし馬車鉄道の開通で市民生活の利便性が向上した反面、馬車の運行で道路が損壊し馬糞や砂塵が飛散することから、沿線住民の苦情も絶えないのが実情であった。
そこでより近代的な交通機関として路面電車が計画されるようになり、1889年(明治22年)には大倉喜八郎、藤岡市助ら東京電燈関係者や実業家の立川勇次郎らが政府に敷設計画を出願した。だが当時は電気鉄道そのものがまだ誕生して間もない技術であり、これらの出願は時期尚早とみられ認可されなかった。そこで翌1890年(明治23年)に東京・上野公園で第三回内国勧業博覧会が開催されると、東京電燈は同社技師長であった藤岡市助主導のもと会場内に170間(約300m)の軌道を敷設し、藤岡らが米国視察の折購入した電車のデモ運転を行った。入場料3銭に試乗料2銭と決して安くはなかったが、電車の静粛さや物珍しさも手伝ってデモ運転はたちまち大評判となり、内国博をきっかけに電車敷設の動きは本格的なものとなった。こうした経緯を経て、1895年(明治28年)に開業した京都電気鉄道を皮切りに名古屋電気鉄道、大師電気鉄道小田原電気鉄道など、全国各地で電気鉄道が続々と開業していった。
ところが東京では1893年(明治26年)から1899年(明治32年)の6年間で35社もの出願が相次ぎ、特許権獲得をめぐって対立しあっていた。特に有力な出願者だった東京馬車鉄道、雨宮敬次郎らの東京電車鉄道、藤山雷太らの東京電気鉄道、利光鶴松らの東京自動鉄道の4社の対立は激しく、許認可が自由党と進歩党の政争の具にされたり、電車を民営とするか市営とするかで東京市会や市参事会が紛糾するなど、大きな混乱が生じた。また当時東京市内の都市計画を担っていた東京市区改正委員会が電気鉄道の敷設条件について介入したことも混乱に拍車をかけた。デモ運転から10年が過ぎた1900年(明治33年)、紆余曲折の末内務省は東京電車鉄道、東京電気鉄道、東京自動鉄道の3派が合同して組織した東京市街鉄道、岡田治衛武らが四谷信濃町 – 青山 – 渋谷 – 池上 – 川崎間などの路線を計画して設立した川崎電気鉄道、そして既設の東京馬車鉄道の3社に対して特許を与えた。
