
◆和田 久四郎(二代)
田中弥三右衛門の次男として生まれる。初代は写真師ではないため、「写真師としては」和田久四郎(二代)が初代となる。 新潟で海産物等を営んでいた。 江戸に出て薩摩藩士・本間某から写真術を学び、写真用品を入手した。 明治元年頃、新潟で和田写真館を開業。「薩摩藩士・本間某」については特定できないが、長崎でフルベッキに学び、のち鹿児島開成所の英学教師となった蘭学者「本間北曜」が候補に挙げられる。田中弥三右衛門の次男として生まれる。義父は初代・和田久四郎を名乗るが写真師ではないため、写真師としては和田久四郎(二代)が初代となる。新潟で海産物等を営んでいた。 江戸に出て薩摩藩士・本間某から写真術を学び、写真用品を入手した。明治元年頃、新潟で和田写真館を開業。明治18年9月10日発行の新潟新聞に、清水国道の開通を伝える記事があり、写真師・和田球四郎と記載されているが、名前は誤りと思われる。笠原彦三郎は、10代の頃に聞いた遠藤権四郎、金井弥一、和田久四郎などの成功に影響された。息子の和田久四郎(三代)が跡を継いだ。
「薩摩藩士・本間某」については特定できないが、長崎でフルベッキに学び、のち鹿児島開成所の英学教師となった山形酒田出身の蘭学者「本間北曜(本間郡兵衛)」が候補に挙げられる。本間北曜は酒田で一番早く写真を撮影した人物と言われ、安政3年頃に長崎の写真館で撮った写真が残っている。
◆和田 久四郎(三代)
父・和田久四郎(二代)の開いた新潟の写真館を継いだ。明治 23 年、第三回第四回内国勧業博覧会に出品。褒状を授与。明治 28 年、第四回内国勧業博覧会に出品。明治 11 年頃、二見朝隈(初代)、二見朝隈(二代)、古賀暁などに学んでいる。