【古写真関連資料】写真師たちと、外国人居留地

外国人居留地写真師日本人
wikipedia(外国人居留地:神戸)

日本最初の一般営業鉄道は、横浜居留地と築地居留地を繋ぐものだった。また下岡蓮杖が走らせた乗合馬車も同区間にあった。

萩原 喜三郎(はぎわら きさぶろう)
外国人居留地のファルサーリ(ファサリ)写真館で技師を務める。 明治 22 年、横浜・扇町に写真館を開業。

諸岡 四郎(もろおか しろう)
長崎港大浦川端通居留地境の台紙がある。

光村 利藻(みつむら としも)
父は神戸随一の廻船問屋だった栄町「長門屋」の光村弥兵衛。長男。 明治 24 年、父が死去。 その葬儀写真を撮影したのは市田左右太(初代)であった。 葬儀写真に興味を抱き、居留地のトムソン商会から輸入カメラを入手。 「市田写真館」に持ち込んで市田左右太から直接写真術を教わった。 明治 24 年、慶応義塾に入学して上京。 明治 24 年、小川一真に伝授料を支払い当時最新の「コロタイプ印刷」を教わった。

市田 左右太(初代)(いちだ そうた)
父は市田宗兵衛で「山田屋」という屋号であった。市田重郎は出石焼の絵付け画工職人として名が残っている。妻は京都の松井嘉七の妹・松井きく。万延元年、郷土(出石)から神戸へ出る。慶応元年、内田九一上野幸馬を連れて長崎から舟で、写真撮影しながら旅費を稼ぎ、まず神戸で写真撮影の活動を始めたようである。 このとき、市田左右太(初代)葛城思風森川新七田村景美等に写真術を教えたという。慶応 3 年、京都で写真館(市田写真館)を開業。 明治 3 年、神戸元町通 3 丁目に移転。 雇い人に暗箱を担がせ、造成中の居留地を回り、写真営業を行った。 明治 8 年、阪神間鉄道の敷設を撮影。 明治 10 年、第 1 回内国勧業博覧会に出品。第 3・第 4 回にも出品し受賞。 明治 12 年、2 丁目浜側(現在の 1 番街の西半分)に移転。 明治12年、京都の写真師による「同業親睦会」開催準備があり、吉田佐兵衛辻精一郎安平治角倉玄遠鎌田永弼舟田有徳酒井虎逸長谷川清之進、津田境(津田新太郎と同一人物か?)が参加している。明治13年、1月9日、京都の写真師による第一回親睦会が円山左阿弥樓で開催され、市田左右太藤井圏蔵安平治橋垣**舟田有徳堤董子吉田佐兵衛長谷川清之進三品**酒井虎逸堀真澄津久間**角倉玄遠鎌田永弼辻精一郎小寺準之助成井頼佐(または成井秀廿)、堀内信重野田**桂氏丸が参加している。 明治 20 年頃、2 代目市田左右太が市田写真館を引き継ぐ。 2代目の妻は初代市田左右太の娘・ひさ。明治 24 年、神戸随一の廻船問屋「長門屋」の光村弥兵衛の葬儀写真を撮影。その葬儀写真に興味を抱いた光村弥兵衛の息子・光村利藻は輸入カメラを入手、市田左右太から直接手ほ どき受けた。これが現在の東証 1 部上場・光村印刷の基礎となった。 明治 29 年、死去 養子、市田幸四郎は市田写真館内で市田印刷を創業、のちの大日本印刷に合流。

小川 一真(おがわ かずまさ)
明治13年、築地のバラー学校へ入学し、英語を習得。明治14年、横浜の外国人居留地で警察の通詞を勤める。明治14年、富岡町の写真館を閉じ、横浜の下岡太郎次郎下岡蓮杖の弟子で養子)に写真術を学んでいる。明治14年、第2回内国勧業博覧会に出品したが評価されなかったという。明治15年、横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に乗船し、単身渡米。旧岸和田藩主・岡部長職の知遇もあったと伝わる。最新の写真術を会得するべくアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンのハウスティング写真館に住み込みで働く。また、欧州の最新写真技術やコロタイプ印刷などを体得している。明治17年(18年とも)帰国。明治 18 年、東京府麹町区飯田町四丁目一番地に「玉潤会(玉潤館)」を設立。カーボン印画法の材料を販売する会社も起こしている。 明治 19 年頃、中西應策が門人となっている。 明治 20 年、内務省の委嘱で皆既日食のコロナ撮影を行う。 明治 21 年、枢密院顧問官で男爵、図書頭の九鬼隆一による近畿地方の古美術文化財調査に同行。 奈良の文化財の調査撮影を行った。 のち岡倉天心らと国華社を設立。 明治 22 年、日本初のコロタイプ印刷工場「小川写真製版所」を京橋区日吉町に設立。また、コロタイプ印刷による図版入りの美術雑誌『国華』を創刊。 明治 24 年、光村利藻は、小川一真に伝授料 200 円を支払って最新のコロタイプ印刷をマスターし、光村印刷(東証 1 部上場)の基礎を築いた。

平村 徳兵衛(ひらむら とくべえ)
旧二ツ茶屋村の豪商「茶屋」、醸造家・高浜弥左衛門の次男。 最初は花隈村の森川家の養子となる。 森川家に長男・ 森川為助(のち写真師)が生まれたため、平村家の養子となった。 友人の保証人になり失敗し、居留地で工事人夫をしていた。 慶応 3 年、ゴールドが写真営業のため長崎から神戸に来た際に家屋を提供し、写真術を習った。 明治 5 年(2 年または 3 年とも)、神戸で写真館を開業。明治 9 年、元町通 6 丁目の横小路に移転。 明治 10 年、阪神間鉄道開業の写真を撮影。 明治 17 年、日本の名所旧跡の写真を外国人に販売。 明治 23 年、第三回内国勧業博覧会に出品し褒状を受ける。平村徳兵衛森川新七森川為助は縁者。 平村清は平村徳兵衛の写真館に名が残るが、血縁者かどうか不詳。

臼井 秀三郎(うすい ひでさぶろう)
別名は臼井蓮節。幼名は 臼井 重蔵。三男。 父は下田の資産家で屋号「香取屋」の臼井伝八。 臼井伝八の長女・ 臼井 美津は、下岡蓮杖の妻(先妻)。 一時、下岡蓮杖は臼井秀三郎の義兄であったことになる。 慶応 3 年、横山松三郎に次いで下岡蓮杖の二番目の弟子となり、「蓮」の字を貰って「蓮節」と名乗る。 明治 2 年、徳川家達の肖像写真の写真台紙裏側に「横浜 臼井蓮節」の印章がある。 明治 8 年(または 10 年頃)、横浜太田町 1 丁目 13 番地で写真館を開業。 明治 12 年、南北戦争北軍の将軍ユリシーズ・グラント(第 18 代アメリカ合衆国大統領)を撮影。 明治 14 年に出版された『横浜商人録』に横浜太田町 1 丁目 13 番地と記載されている。 明治 15 年、英国の博物学者のヘンリー・ギルマールの日本旅行に同行し、日本各地の写真を撮影。 この写真はケンブリッジ大学に保管されている。 明治 18 年(または 17 年)、デビッド・ウェルシュとともに、横浜居留地 16 番に横浜写真社を開設。 その後、横浜写真社はアドルフォ・ファルサーリ(ファサリ)に買収されたため、開業地の太田町に戻った。

◆外国人居留地
政府が外国人の居留および交易区域として特に定めた一定地域をいう。近代日本では、江戸時代幕末の1858年に締結された日米修好通商条約など欧米5ヶ国との条約により、開港場に居留地を設置することが決められ、条約改正により1899年に廃止されるまで存続した。

◆横浜居留地
諸外国と締結した修好条約では開港場は神奈川となっていたが、東海道筋の宿場町である神奈川宿では日本人との紛争が多発すると懸念した幕府は、勝手に街道筋から離れた辺鄙な横浜村に開港場を変更してしまった。オールコックら英米外交団は条約の規定と違うと強硬に抗議したが、幕府は横浜も神奈川の一部であると押し通した。 横浜港は、1859年7月4日に正式開港し、まず山下町を中心とする山下居留地が4年で完成した。横浜居留地は幕府が勝手に造成したため当初は日本風の造りであったが、1866年の大火“豚屋火事”の後、洋風に改められた。この復興工事は幕府から明治政府が引き継いだ。居留地は掘割で仕切られていて、入り口にある橋のたもとには関所が設置されていたので、関内居留地とも呼ばれる。その後、外国人人口がさらに増加したので、1867年には南側に山手居留地も増設された。山下居留地は主に外国商社が立ち並ぶ商業区域となり、山手居留地は外国人住宅地となった。現在観光コースになっている山手本通り沿いにある数棟の西洋館は、旧イギリス7番館(1922年)を除けば、すべて観光資源として昭和時代以降に建築されたものか他所から移築されたものである。横浜居留地にあった外国商社としては、ジャーディン・マセソン商会(怡和洋行)、デント商会 (Dent & Co.)、サッスーン商会 (Sassoon & Co.)、ウォルシュ・ホール商会、コーンズ商会、アダムソン商会(現・ドッドウェルジャパン株式会社)などがあったほか、横浜初の英字新聞『Japan Herald』の印刷発行所(1867年倒産)などもあった。1859年7月時点で50名近くの外国人が居住したと言われ、イギリス人が最も多く、そのほとんどが新天地日本との貿易で一攫千金を狙う商人だった。1863年には西洋人だけで約170人がおり、半数近くがイギリス人だった。開港当時の様子を描写した著作のあるアーネスト・サトウは、オールコックと思われるある外交官が居留地の外国人社会を「ヨーロッパの掃きだめ」と称したと記し、商人と公的に派遣された役人との仲は悪かった。横浜の外国人はイギリス次いでアメリカ、ドイツが多く、ドイツ系の商社にはアーレンス商会、イリス商会、シモン・エヴァース商会、カール・ローデ商社などがあり、ドイツから機械や軍事品、化学製品等を日本へ輸入していた。当時、外国人の行動範囲は、東は多摩川、北は八王子、西は酒匂川であった。1862年夏、川崎大師見物のため乗馬していた横浜居留地の英人男女4人が生麦村(現:横浜市鶴見区)で薩摩藩の大名行列に切りつけられる生麦事件が起こり、幕府を震撼させた。居留地周辺は、幕末には攘夷浪人も出没して外国人殺傷事件がしばしば起こる物騒な地域であった。居留民保護のため1875年までは英仏軍隊も駐留していた(英仏横浜駐屯軍)。1872年には、イギリス人のエドモンド・モレルの指導により、新橋-横浜間に鉄道が開通した。当時の横浜停車場(後に桜木町駅となる)は居留地を出てすぐの所であり、新橋停車場(後に汐留貨物駅となる)は築地居留地の外縁にあった。横浜居留地は、1877年に日本側の行政権が完全に回復した。山下の居留地完成から14年後、山手の居留地増設から僅か10年後のことである。なお、返還自体は他都市と同様に1899年7月17日である。

◆築地居留地
東京は開港場ではないが、開市場に指定されたため、1869年に築地鉄砲洲に外国人居留地が設けられた。今日の中央区明石町一帯の約10ヘクタールである。しかし、横浜居留地の外国商社は横浜を動かず、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入った。このため、青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院、雙葉学園の発祥地となっている。現在この地区のシンボルになっている聖路加国際病院も、キリスト教伝道の過程で設けられた病院が前身である。また外国公館も多く、1875年にアメリカ合衆国公使館が設置され、1890年に現在の赤坂に移転するまで続いた。築地に置かれた公使館やキリスト教会の母国は9カ国に達し、最盛期には300人以上の外国人が暮らした。英国人宣教師ヘンリー・フォールズが、日本人の拇印の習慣などから、世界でも先駆的な指紋の研究を始めたり、平野富二が活版印刷所を興したりするなど、近代文化・産業の発信地となった。築地居留地は1899年の治外法権撤廃で法的に廃止された。立ち並んでいた洋館も、1923年の関東大震災で全て失われた。

◆川口居留地
1868年、神戸、東京と同時期に開港・開市した大坂に設置された外国人居留地で、川口は大坂市街へ遡上する二大航路の安治川と木津川の分岐点。大阪居留地、大阪川口居留地とも呼ばれる。当時の大阪港であった安治川左岸の富島は、河港であったため大型船が入港できず、貿易商らは早々に神戸港へ移転。代わってカトリック教会の宣教師らが定住して教会堂を建てて布教を行い、その一環として多くのミッションスクールを創設した。木津川対岸の江之子島は、明治・大正時代の大阪府および大阪市の行政の中心地であった。

◆神戸居留地
江戸幕府は、天皇の居住する京都に近い畿内は攘夷気分が強く情勢不穏であるとして、兵庫開港を延ばしに延ばしていた。しかし、実際は、当時日本の経済的中心地であった大阪から外国人を遠ざけておきたかったからのようである。このため、神戸港は条約締結から10年を経過した1868年1月1日に開港した。日本人と外国人との紛争を避けるため、開港場や外国人居留地は当時の兵庫市街地から3.5kmも東に離れた神戸村に造成される。東西を川に、北を西国街道、南を海に囲まれた土地で、外国人を隔離するという幕府の目的に適う地勢であった。ここにイギリス人土木技師J.W.ハートが居留地の設計を行い、格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などを整備、126区画の敷地割りが行われ、同年7月24日に外国人に対して最初の敷地競売が実施された。全区画が外国人所有の治外法権の土地であり、日本人の立入が厳しく制限された事実上の租界である。当時、東洋における最も整備された美しい居留地とされた。この整然した街路は今もそのままである。神戸居留地では外国人の自治組織である居留地会議がよく機能し、独自の警察隊もあった。1868年に居留地の北の生田神社の東に競馬場が開設されたものの、数年で廃止されている。神戸の外国人居留地が日本に返還されたのは、不平等条約改正後の明治32年(1899年)であった。神戸市街地は1945年に太平洋戦争下の神戸大空襲を受けたため、現在の神戸市役所西側一帯にあった居留地時代(1899年以前)の建物で残っているのは旧居留地十五番館(旧アメリカ合衆国領事館、国の重要文化財)が唯一で、多く残る近代ビル建築は主に大正時代のものである。ただ、居留地が手狭になったため、1880年頃から六甲山麓の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)である北野町山本通付近に多くの外国人住宅が建てられ、戦災を免れた。これが今日の神戸異人館である。

◆長崎居留地
鎖国時代から貿易港として機能した長崎港は、1854年に国際開放された。この時は来航する外国船に薪水を供給する程度であったが、1859年に本格開放され、1860年から大浦一帯の海岸が埋め立てられて居留地が造成された。1870年完成。グラバー邸を中心とする東山手・南山手(重要伝統的建造物群保存地区)一帯である。江戸時代から日本唯一の対外貿易港であった長崎の居留地には、当初、多数の外国人が押しかけて繁栄したが、明治になると長崎居留地はそれほど発達せず、むしろ普段は中国大陸の上海を中心とする租界に在住した欧米人の保養地として賑わうようになった。居留地の海岸に近い方には貿易のための商館や倉庫が建造され、中程にはホテル、銀行、病院、娯楽施設が並んだ。眺望がよい東山手や南山手には洋風住宅・領事館が建てられた。また、近隣に雲仙温泉を控えていたことも彼ら欧米人にとっての保養地としての魅力を増すこととなった。今日でもオランダ坂に代表される石畳の坂路や点在する洋館などに居留地時代の雰囲気を残す。長崎市では毎年9月中旬に「居留地祭り」を開催している。

◆箱館居留地
1854年から米国船の寄航が認められ、1859年正式開港、元町一帯が居留地と定められた。1868年には幕府反乱軍が箱館を占領し、五稜郭で箱館戦争が起こっている。諸外国は中立を守った。箱館の居留地は、ほとんど有名無実で、実際には外国人は市街地に雑居した。現在も赤レンガの倉庫やカトリック教会、正教会の教会堂が残る。

◆新潟居留地
日本海側の新潟港は、江戸時代に北前船の寄港地として発展し、1868年に対外開港した。外国人の来住が少ないため特に居留地は設置せず、市街に雑居することが認められた。