
◆市川 兼恭
父は広島藩医・市川文徴、母は林氏政子。三男。 姓は源、幼名は 市川 三輔。後に 市川 岩之進、 市川 斎宮。明治 2 年、 市川 逸吉に改める。号は 市川 浮天斎。 高良斎、緒方洪庵、杉田成卿に蘭学を学び、佐久間象山にも師事。 嘉永元年、福井藩の命で軍備の近代化に貢献する。 嘉永 3 年、福井藩の砲術師範。 嘉永 6 年、幕府天文台蕃書和解御用出役。オランダ語やロシア語文書の翻訳に携わる。 安政 3 年、蛮書調所教授職手伝役となり西洋印刷術を習得。 竹橋御蔵にある汽車模型、電信機を動かす仕事を任される。 安政 3 年、プロイセン王国の外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクが献上した電信機、写真機の伝習に加藤弘之(加藤弘蔵、フルベッキの門弟、後の男爵、東京帝大総長)とともに着任。 安政 4 年、古賀謹一郎(儒学者・官僚)から、オランダから渡来したスタンホープ型手引印刷機を用いて 各種印刷を動かすように命じられる。 万延元年以降、加藤弘之とともにドイツ語研究に従事。 また、加藤弘之とともにロシアのオイレンブルグ伯爵が幕府に送った写真機により写真術を学ぶ。 文久 3 年、開成所教授に就任しドイツ語を教え、独語辞典編纂も行った。 慶応元年、幕臣に列せられる。 慶応 3 年、大番格砲兵差図役頭取勤方。 明治初期、陸軍兵学中教授。(明治 7 年、辞職) 明治 12 年、東京学士会院会員。 明治 32 年、死去。
◆出石藩士・加藤弘之
明治時代の日本の政治学者、教育者。旧幕臣・出石藩士。位階勲等は正二位勲一等、爵位は男爵、学位は文学博士・法学博士。旧名・誠之(あきゆき)、通称・弘蔵。外様大名の出石藩の藩士の子に生まれ、出石藩藩校弘道館で学んだ後、済美館や致遠館でフルベッキの門弟として学ぶ。学門一筋で精進し幕臣となり、維新後は新政府に仕える身となる。明六社会員。外務大丞、元老院議官、勅選貴族院議員などを歴任、獨逸学協会学校の第2代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第2代総長を務めた。大日本教育会名誉会員。その後男爵、初代帝国学士院院長、枢密顧問官。
1836年(天保7年):但馬国出石藩(現在の兵庫県豊岡市)の藩士として、同藩家老をも務めた加藤家の加藤正照、妻・錫子の長男として生まれる。幼名は土代士(とよし)。
1852年(嘉永5年):江戸に出て佐久間象山に洋式兵学を学ぶ。
1854年(安政元年):大木仲益(坪井為春)に入門して蘭学を学ぶ。
1860年(万延元年):蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。
1861年(文久元年):『鄰草』(となりぐさ)を著し欧米の立憲思想を紹介する(ただし印刷・公表されたのは明治32年(1889年)である)。
1864年(元治元年):旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。
1868年(慶応4年):1月、目付に任ぜられる。
1869年(明治2年):新政府へ出仕、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出。
1870年(明治3年):洋書進講担当の侍講に任ぜられる。『真政大意』を著し天賦人権論を紹介。
1872年(明治5年):ヨハン・カスパル・ブルンチュリの『国家学』を進講(後に『国法汎論』として翻訳出版)。
1873年(明治6年):明六社に参加。民撰議院設立論争では時期尚早論を唱えた。
1874年(明治7年):『国体新論』を発表。
1877年(明治10年):東京開成学校綜理。旧東京大学法文理三学部綜理。
1881年(明治14年):7月、職制の改革によって、旧東京大学初代綜理( – 明治19年(1887年)1月)。
1882年(明治15年):『人権新説』を出版、社会進化論の立場から民権思想に対する批判を明確にし、民権思想家との論争を引き起こした。一般的には、この『人権新説』を境に、加藤は自らの思想、態度を変化させたと考えられている。
1886年(明治19年):1月11日、元老院議官。
1890年(明治23年):
5月、旧東京大学を改制した帝国大学(現・東京大学)の第2代総長となる。
9月29日、貴族院議員に勅任( – 明治39年(1906年)12月15日)。
1893年(明治26年):『強者の権利の競争』では、強権的な国家主義を展開した。
6月、帝国大学総長を辞任。
7月、錦鶏間祗候。
1895年(明治28年):7月、宮中顧問官。
1898年(明治31年):高等教育会議議長。
1900年(明治33年):男爵に叙せられ華族に列する。
1906年(明治39年)
7月、初代帝国学士院長。
12月10日、枢密顧問官。
1916年(大正5年):79歳で死去。遺言により、無宗教で葬儀が行われた。