【古写真の調査後売却】加賀藩主・前田利為ほか金沢医科大学関係者

加賀藩主・前田利為ほか金沢医科大学関係者

◆写真師・高桑五十松
東京で写真術を学ぶ。
明治 40 年、金沢で開業。大正 3 年、技術研究のため渡米。

◆前田利為
日本の華族、陸軍軍人。陸士17期・陸大23期恩賜。最終階級は陸軍大将。旧加賀藩主前田本家第16代当主(侯爵)である。旧七日市藩知事前田利昭子爵の五男として生まれる。初名は茂。1900年(明治33年)1月 – 前田本家第15代当主の前田利嗣侯爵の養嗣子となり、6月13日に家督を相続する。1910年(明治43年)6月4日 – 満25歳に達し貴族院侯爵議員となる。1916年(大正5年)11月5日 – 藍綬褒章受章。1926年(大正15年)、公益法人育徳財団(後の前田育徳会)を設立。先妻は15代当主前田利嗣の娘・前田漾子(なみこ、夫と同行したヨーロッパ滞在中に病没)。後妻は伯爵・酒井忠興の娘・菊子。ちなみに菊子は久邇宮朝融王に理由不明のまま一方的に婚約を破棄されたという経歴を持つ。子女は、先妻との間に前田利建(第17代当主)、利国、後妻との間に酒井美意子(長女、従兄の酒井忠元の妻)、瑶子、前田利弘(子爵大聖寺藩主家を相続)、弥々子。陸軍将校を志し、学習院を経て、1905年(明治38年)3月に陸軍士官学校(17期)を卒業し、歩兵将校となる。近衛歩兵第4連隊附。陸士17期の同期生には東條英機がいる。1911年(明治44年)11月29日 、陸軍大学校(23期)を卒業し、成績優等(3位)により恩賜の軍刀を拝受。1913年(大正2年) – ドイツに私費留学、その後イギリスに渡る。1923年(大正12年)8月7日 – 近衛歩兵第4連隊大隊長となる。1927年(昭和2年)7月26日から1930年(昭和5年)8月1日まで駐英大使館附武官となる。その後、近衛歩兵第2連隊長となる。1933年(昭和8年)3月に陸軍少将に進級すると同時に陸大教官。同年8月、歩兵第2旅団長。1935年(昭和10年)3月、 参謀本部第四部長。1936年(昭和11年)8月、陸大校長。同年12月、陸軍中将に進級。1937年(昭和12年)8月、第8師団長に親補される。1938年(昭和13年)12月に参謀本部付となり、翌1939年(昭和14年)1月に予備役。1942年(昭和17年)4月、召集されてボルネオ守備軍司令官に親補される。同年9月5日 、ボルネオ沖で搭乗機が消息を絶つ。後に乗機の残骸と前田の遺体が発見されたが、前田の搭乗機の遭難原因は判明しなかった。佩用していた名刀「陀羅尼勝国」はくの字に曲がっていたという。正二位に叙され、陸軍大将に親任される。当初、前田の死は「陣歿」(殉職)と発表された。戦時においても軍人の事故による死亡は「陣歿」の取り扱いであった(例:古賀峯一)。当時の税法では「戸主が戦死した場合には相続税を免除する」となっており、巨額の資産を持つ前田家にとって、前田の死が「戦死」と「陣歿」のどちらの扱いとなるかは大問題であった。相続税を目当てに、故意に陣歿扱いにしたのではないかと帝国議会で取り上げられ、河田烈・蔵相が「陸軍のお指図次第」と答弁して前田の死は「戦死」の取り扱いに変更され、前田家は相続税を課されることを免れた。

◆松原三郎
1877-1936 明治-昭和時代前期の神経精神科学者。明治10年10月19日生まれ。36年アメリカに留学。42年金沢医専(現金沢大)教授となる。のち松原病院を開設。昭和11年8月死去。60歳。石川県出身。東京帝大卒。

◆宮田篤郎
金沢医学専門学校教授。宮城縣士族 從五位、勳五等。宮城縣士族宮田の二男にして明治五年十一月八日を以て生れ明治四十二年一月家督を相續す同三十二年十二月東京帝國大學醫科大學を卒業して醫學士の稱號を得同三十六年一月金澤醫學專門學校教授に任せられ以て今日に至る曩に留學を命せられ目下外國に在留す。家族は前記の外二男榮(明三七、二生)三男博(同三九、八生)四男正男(同四二、三生)長女菊子(同四四、一一生)二女幸子(大三、二生)あり

◆高安 右人
(たかやす みきと、万延元年7月19日(1860年9月4日) – 昭和13年(1938年)11月20日)は、日本の医学者で高安動脈炎(高安病)の発見者。1860年(万延元年) 肥前国小城郡西多久村(現・佐賀県多久市)に、武岡家の四男として生まれる。1887年(明治20年) 帝国大学医学部を卒業。1888年(明治21年) 第四高等中学校に開設された医学部の教授に就任。(改組を通じて1924年まで在任)。1901年(明治34年) 金沢医学専門学校の設立(四高医学部から分離独立)に伴い、同校長に就任。1908年(明治41年) 日本眼科学会で、後に高安病と命名されるに至る病の発見を示した論文を発表。1923年(大正12年) 金沢医科大学の設立(金沢医学専門学校から昇格)に伴い、初代学長に就任。1938年(昭和13年) 直腸癌のため死去。1910年(明治43年)6月24日 – 勲三等瑞宝章1918年(大正7年)6月29日 – 勲二等瑞宝章

◆須藤憲三
日本の医師、医学者、医学博士、旧制金沢医科大学(現:金沢大学医学部)学長、生化学者。日本における糖尿病研究の先駆者であり、尿糖の定量法を確立した。また、「栄養」の命名者でもある。 当時は「営養」と書かれていたが「“営む”のではなく、“養い栄えさせる”のが栄養学の目的で、心身を栄えさせてはじめて頭も良くなるんだ」との主張の元、森鴎外、尾崎幸雄などの支持を得て「栄養」に改めた。 金沢医科大学病院に国内の病院としては初めて栄養部を設立1923年、栄養部長に大橋タカ子を登用。 日本の脚気史によれば、臨時脚気病調査会委員を務めている。羽前国置賜郡赤湯村(現山形県南陽市の赤湯温泉)の町人宿「あぶらや」の主人富右ヱ門と母いわの長男として生を受ける。富右ヱ門は町人ながら、漢籍に詳しく書家としても号を雙翠(フスイ)と称し、名の通った土地の文化人であった。 幼名は健蔵、後に上京してから憲三と名乗る。 明治11年10月10日6歳10ヶ月で尋常小学校入学、4年で卒業。赤湯としては例を見ない優秀な成績で卒業。同じく赤湯村出身の東京帝国大学医学教授 佐藤精のすすめで徒歩で上京、明治19年15歳の時であった。のちに須藤の妻となった「とく」は佐藤精の長女。 佐藤精は上杉藩藩医佐藤玄甫の長男、幼名を精一郎、母方の叔父であり、「とく」と須藤は、いとこ同士であった。上京後、獨逸学協会学校でドイツ語を学ぶ、 1889年(明治22年)東京医学院に入るも東京医学院破たん後は済生学舎にて医学を学ぶ。1892年(明治25年)内務省医術開業試験に合格(当時学歴は不要であった)。1893年(明治26年)4月東京帝大医科大学生理学専科(史料によっては 選科 の記述もある)に移る、1894年(明治27年)6月東京帝大医学部隈川宗雄教授の助手。1903年(明治36年)3月講師。1905年(明治38年)助教授就任、1911年(明治44年)医学博士。 1912年(明治45年)より3年間ドイツ留学、ベルリン大学、カイザーウィルヘルム研究所(Kaiser-Wilhelm-Institut 現在では Kaiser-Wilhelm-Gesellschaft zur Frderung der Wissenschaften および Max-Planck-Institutに継承されている)にて研究。(出典:家族伝承 および 第39回日本民族衛生学会 会長講演 「sutoh kenzoh先生」須藤春一 1974年10月19日)高安右人初代学長の後を受けて、1924年(大正13年)-1932年(昭和7年)金沢医科大学 (旧制)第二代学長。昭和7年(1932年)退官、同年12月28日勳二等 瑞宝章。 後任は石坂伸吉氏(薬理学)。

◆青戸信賢
金沢高等工業学校初代校長。1918年9月より創立事務取扱を嘱託される。名古屋高等工業学校教授より転じる。島根県出身。島根縣人青戸伴次郞の長男にして明治九年七月を以て生れ大正十年家督を相續す明治三十四年東京帝國大學工科大學土木工學科を卒業し同三十五年第七高等學校造士館教授同四十年名古屋高等學校教授等に任し同四十二年土木學究の爲歐米諸國を漫遊す現時金澤高等工業學校長兼教授たり。家族は尚二女久美(大五、七生)三女美根(同八、一〇生)二男賢(同一一、七生)四女美保(同一三、八生)弟義也(明三二、三生)あり 從四位、勳三等

◆武藤虎太
日本の教育者。肥後国菊池郡戸崎村(現在の熊本県菊池市)に熊本藩士・衆議院議員武藤一忠の長男として生まれた。1895年(明治28年)、東京帝国大学文科大学国史科を卒業[1]。第五高等学校教授、第二高等学校教授、同校長を務め、1920年(大正9年)より2年間欧米を視察した。1921年(大正10年)、第四高等学校校長となり、のち第五高等学校校長に転じた。退官後は、第五高等学校名誉教授の称号を受けた。その他、維新史料編纂会委員を務めた。

◆泉伍朗
一八八四年(明治一七)五月二十八日に山口県熊毛郡大野村、現在の平生町大野北で生まれた。少年時代に父は村長を勤めており、山口中学、山口高校を経て一九一〇年(明治四十三)十一月に九大医学部(当時は京都帝国大学福岡医科大学)を卒業した。卒業に当たって成績優秀により銀時計を受領しており、最初は病理学教室で一年間病理学を学び、外科教室に入局して三宅速教授のもとで外科学を専攻した。教授は内臓外科、とくに胆石症の権威者として名高く日本外科学会の巨頭であった。医局時代の泉は精力的に研究し、多くの論文を執筆しており「回虫卵に起因せる膵臓炎について」と題する八十頁におよぶ長い論文が『日本外科学会雑誌』(第十四回三号、一九一三)に掲載されている。すでに紹介した「膵内分泌に関する知見補遺並に実験的研究」が学位論文で、十七年(大正六)には助教授に昇任した。 泉は卒業した翌年、同じ郡内の田布施村の佐藤家から妻こま子を迎えている。妻の長兄は海軍に入って中将に昇進し、弟の岸伸介と佐藤栄作の二人は、戦後になってともに総理大臣になるという兄弟総理として有名になった家系である。 助教授になった翌年の十八年に欧米へ留学した。最初はペンシルバニア大学のマックマネス実験病理学教室で学び、次いで英、米、独の大学を歴訪し、腹部外科を中心とした外科学全般について見聞を広め、またスイスのチューリッヒ大学で研究している。欧米先進国の外科をつぶさに観察して最も痛感したことは脳外科の進歩であった。最初の予定より留学期間が延長になり、二年四ヵ月後の二十一年(大正十)二月に帰国した。帰国して早速『日新医学』の十周年記念号に「脳外科の現状」と題して見聞記を発表している。大正・昭和期の外科学者 岡山医科大学教授。生年明治17(1884)年4月29日没年昭和8(1933)年12月17日出生地山口県熊毛郡大野村(現・平生町)学歴〔年〕九州帝大医科〔明治43年〕卒学位〔年〕医学博士〔大正8年〕経歴大正6年九州帝国大学助教授、12年金沢医科大学教授を経て、昭和3年岡山医科大学教授。この間、大正7年米国、英国、フランスに留学。すい臓炎の研究で知られた。

◆岸重次
第四高等学校教授,金沢大学講師。正五位、勳四等。石川縣士族。第四高等學校教授。生年月日明治十一年九月 (1878)。岸秀實の二男。家族 父 秀實 弘化元、四生、石川、士、永山平太長男、現戸主。母 多慶 嘉永五、五生、石川、士、青木三右衞門長女。妻 馨 明一九、八生、石川、士、端槌太郞二女。男 秀男 明三八、四生、東京帝國大學醫學部在學。 女 雪子 明四五、七生、縣立金澤第二高等女學校在學。君は石川縣士族岸秀實の二男にして明治十一年九月を以て生る同三十六年東京帝國大學文科大學英文科を卒業し熊谷小樽熊本各中學校教諭に任し現時第四高等學校教授たり大正十一年英米兩國に留學し英語及英文學を究せり。家族は尚三女澄子(大六、六生)あり。姉志計(明八、一生)は石川縣人市川市三郞長男辯護士法學士仙太郞に嫁せり。住所 金澤、中主馬町三。

◆金子治郎
金沢医学専門学校教授 医学博士 石川縣士族 正四位、勳三等 石川縣士族金子意永の男にして安政五年六月を以て生れ明治十二年家督を相續す夙に金澤醫學校を卒業し醫術開業試驗に合格し金澤醫學校助教授第四高等學校教授を經て生理學究の爲獨に留學す現に金澤醫科大學名譽教授たり 家族は尚五男次(大四、一二生)あり 長女とみ(明一七、九生)は福岡縣士族中屋重樹に養子茂(同二三、六生、石川、士、佐藤慶吉二女)は石川縣人松原季久郞に同マス(同九、一生、石川、士、國谷猶作長女)は同縣士族山田吉郞長男金一郞に嫁せり

◆山碕幹
金沢医学専門学校教授 金沢病院長。第四高等学校医学部主事 明治20年(1887)帝国大学医科大学卒業、松江病院長を経て、明治29年(1896)第四高等学校教授に就任、大正6年(1917)退官まで第一内科学教授として多大の功績を還した。高等官二等、正四位、勲三等に叙せられた。

◆中村安次郎
日本の内務・警察官僚。官選県知事。東京府小石川出身。中村清一の長男として生まれた。第一高等学校を卒業。1915年10月、文官高等試験行政科試験に合格。1916年、東京帝国大学法科大学法律学科を卒業。三井物産を経て内務省に入省し京都府属となる。以後、京都府警視、同理事官、内務省警保局事務官、石川県書記官・警察部長、新潟県書記官・警察部長、秋田県書記官・内務部長、高知県書記官・内務部長、茨城県書記官・内務部長、京都府書記官・総務部長などを歴任。1936年4月、鹿児島県知事に就任。農林省獣疫調査所の誘致、牝馬育成所の設置に尽力し、屋久島の電源開発調査に着手した。1938年6月、新潟県知事に転任したが、在任中に病のため死去した。

◆久慈直太郎
1881年(明治14年)12月29日,盛岡馬場小路にてのちの江南義塾(現:江南義塾盛岡高等学校)塾長の久慈源一郎,トシの長男として生まれた。盛岡中学校(現:盛岡第一高等学校)在学中は文学を志したが,猪川静雄に勧められ医学の道を選ぶ。1906年(明治39年),東京帝国大学医科大学(現:東京大学医学部)を卒業後約1年間アメリカに渡り,苦労しながら現地の日本人病院で働く。帰国後は母校の産婦人科教室や故郷の岩手病院産婦人科に勤務した。のちには招かれて朝鮮総督府医院産婦人科科長,金沢医科大学教授となっている。1927年(昭和2年),日本赤十字病院院長佐藤恒丸の懇望により日本赤十字社産院院長となり,必要性を痛感していた産婆養成所を就任早々に開校した。また戦後には労働争議により混乱していた東京女子医科大学学長を兼任し,学内の不安一掃に勤めている。1955年(昭和30年)には久慈のそれまでの産科学,婦人科学への貢献に対して保健文化賞が授与された。久慈は釣りを趣味にしていた。在京してからは神奈川の野島に別荘を建て,地元の漁師と仲良くなるまでに通っていた。

◆中村八太郎
金澤署科大學教授、金沢医学専門学校教授、正五位、勳四等。京都府人中村四郞の長男にして明治十四年一月を以て生れ同三十一年家督を相續す同三十八年京都帝國大學醫科大學を卒業し同大學助教授に任じ同四十五年病理學究の爲獨に留學し大正二年醫學博士の學位を受く同五年金澤醫學專門學校教授に任じ同十二年金澤醫科大學教授兼同附屬醫學專門部教授に任ぜられ現時同大學教授にして究の爲に外に在り。家族は尚三男三郞(大五、二生)四男史郞(同九、九生)あり。姉すゑ(明一一、八生)は分家し妹八重(同一六、八生)も亦同夫登(同一三、七生、京都、士、龍野廣太郞弟)と共に分家し同きく(同二一、一二生)は京都府人高木六平長男七太郞に嫁せり

◆塚本政次
明治19年に砺波郡林村に生まれ、幼くして春日吉江村の塚本家に養子入り。金沢医学専門学校を卒業してミュンヘン医科大学で学ばれた後、利屋町で小児科医院を開業。昭和 2 年に北般若村長に就き5期19有余年に亘り村政に尽力された他、村農会長、村耕地整理組合長等を歴任された。この間、小学校校舎の建設直後に襲った昭和恐慌による村の窮状を、報徳仕法による倹約・勤勉で立て直ししようと、経済更正村や教化更正村の国指定を受けて、村経済の再建を図られました。この功労により農林大臣表彰を受けられ、亡くなられた昭和38年に勲六等瑞宝章が追贈されました。

◆松原三郎
1877-1936 明治-昭和時代前期の神経精神科学者。明治10年10月19日生まれ。36年アメリカに留学。42年金沢医専(現金沢大)教授となる。のち松原病院を開設。昭和11年8月死去。60歳。石川県出身。東京帝大卒。

◆土肥章司
国立金沢病院院長で日本皮膚科学会名誉会頭 1876-1960 明治-昭和時代の皮膚科学者。明治9年6月生まれ。東京の済生学舎を卒業,東京帝大でまなぶ。同大教授土肥慶蔵の養子。ドイツに留学し,大正元年金沢医専教授,昭和8年東京慈恵医大教授。のち国立金沢病院院長。日本皮膚科学会名誉会頭。昭和35年2月27日死去。83歳。岐阜県出身。旧姓は栗田。著作に「皮膚及性病学」

◆安井音吉
金澤ホテルの創業者と思われる。昭和36年度産業功労賞を受賞。安井音吉『金沢商工人名録 昭和6年版』金沢商工会議所編 金沢商工会議所 1931(K670.3/2/31)p85の「旅館及待合」の項に、金澤ホテル安井屋旅館(商号) 安井音吉(営業者)の記載が見られる。

◆安倍四郎
日本銀行金沢支店 支店長。中越銀行取締役頭取 東京府人安倍徹藏の弟にして明治十五年九月を以て生れ同四十五年分家して一家を創立す同四十二年東京帝國大學法科大學佛法科を卒業し直に日本銀行に入り現時同行金澤支店長たり歐洲大戰中行命を帶びて英佛兩國に滯在せり。 家族は尚三女加根子(大五、六生)二男知雄(同一二、一生)三男文雄(同一三、一〇生)あり

◆大串栄太郎
金沢高等工業学校 教授。土木工学の学科長(初代)。

◆長岡寛統
第六高等学校 (旧制) 第八代校長。高知高等学校 (旧制) 第五代校長。浜松高等工業学校 第五代校長

◆青木外吉
金沢区工業学校(石川県立工業高等学校)校長。陶芸家として吉田三郎、板谷波山などの師匠。

◆逸見知久
小田急電鉄監査役

◆辻本辰之助
石川県医師会会長

◆岡田柔郎
金沢で医師をしていた形跡があるが詳細不明。

◆林喜久松
金沢縣士族。詳細不明。

◆高柳良幹
不明

◆長井來
不明

◆中本實
不明

◆石川昇
不明

◆料亭 北間楼
北間楼は初代・北吉平(金沢縣士族)が文久二年(西暦1862年)に創業。玄関に掲げられている北間楼の欅板の額は京都の儒者遠山盧山の筆。金沢で最も古い料理屋の一つ。漆喰調蔵風建築と樹齢二百年の柊木犀の巨木が目印。