【古写真関連資料】古川俊平、内田九一なども関わった、筑前福岡藩主・黒田長溥

筑前福岡藩主・黒田長溥

古川 俊平
福岡藩士。 父は福岡藩士・古川俊蔵。黒田家間鳥氏の家臣。 嘉永 7 年、藩主の命で、製薬術研究のため長崎留学をする。オランダ人ヤン・カレル・ファン・デン・ブルークが長崎海軍伝習所で写真術を学んだ。 嘉永 8 年、藩主を撮影。「2 個の半身像を得て、長薄公に奉る。」と伝記にあり、日本人が日本人によって 撮影された最初の銀板写真とされる。ただし、記録はあるが、現物は発見されていない。 安政 3 年、長崎に設立された藩の中島精錬所に出仕。 安政 4 年、藩主の御前でダゲレオタイプ(銀板写真)の撮影に成功。 安政 4 年、福岡藩江戸屋敷前霞ヶ関で、藩士の留学前記念写真を撮影。 安政 4 年、長崎に遊学し、蘭医ボードウィンに湿板法を学ぶ。また、蘭医ポンペやフランス人写真師ロシエに師事した。 この頃、ロシエが行った長崎風景の写真撮影を補助けている。 また松本良順、川野禎三に製薬法を学んでいる。 安政 6 年、福岡城内に舎密館付属写真室が設けられ、また、博多の那珂川支流の河岸の精錬所内に写真研 究所が設けられた。いずれも古川俊平が主宰となる。 しかし、廃藩とともに、成果品を残すことなく終了する。 万延元年、商業写真師ピエール・ロシエから写真術を学び、レンズ、薬品などの写真機材一式を譲られる。 明治 8 年、黒田長溥より写真機材一式を譲り受け、博多東中洲に写真館を開業。 のち、娘(古川タキ)の婿・古川震次郎(旧姓渡辺(有田とも))に家業を譲った。 明治 40 年、死去。

内田 九一
松本良順は幕府の奥医師、医学校頭取、海陸軍医総長をつとめた後、明治新政府下でも陸軍軍医総監をつ とめた重要人物。 松本良順の自伝 『蘭疇』に、内田九一が登場する。 それによると、吉雄圭斎は嘉永元年、オランダの医師モンニッキから種痘法を学んだ。しかし当時は信じ る人がなく、仕方なく自分の親戚二人(当時 4 歳の内田九一と妹の内田菊)に試みて成功した。2 人は両 親が早く亡くなり、九一は松本良順に、菊は吉雄圭斎の下に育てられた。妹の菊は後に長崎大黒町の品川 家の品川徳太に嫁いでいる。 松本良順は長崎でオランダ軍医のポンペに医学を学び、写真にも関心を持つ。この頃、ポンペや前田玄造 らに写真の実技を教えた写真家は、スイス人ピエール・ジョセフ・ロシエであった。 前田玄造は、藩主・黒田長溥から写真術の研究を命じられており、ロシエから湿板写真の実技を習得して いる。その前田玄造の技法に関心を示したのが、松本良順の下で手伝いをしていた内田九一であった。 内田九一は舎密試験所で前田玄造に、後に上野彦馬に写真術を学んだ。 慶応元年、写真業を始めるにあたって、永見伝三郎の尽力を得たとされている。 

前田玄造 
別名は前田友、字は前田何信、号は前田三前。福岡藩士。医師。 福岡藩主・黒田長溥の命で、長崎で医学と写真術を学ぶ。 医師・松本良順の門下となり、 松本良順 とともに長崎海軍伝習所の医官ボンペに写真術を学んだ。同時期に古川俊平、河野禎造(福岡藩医,農事改良家)、上野彦馬堀江鍬次郎らが学んでいる。安政後期、フランス人職業写真家ピエール・ジョセフ・ロシエに随行し、湿板写真を習う。のち海軍伝習所に派遣され医学を学ぶ。 ロシエが帰国する際に写真機を贈られ、上海からの薬剤の輸入法を伝授された。 内田九一を助手として研究を進めている。

◆黒田 長溥
江戸時代後期から末期の大名。筑前福岡藩の第11代藩主。養父斉清と同じく蘭癖大名であり、藩校修猷館を再興させたことで知られる幕末の名君である。文化8年(1811年)3月1日、薩摩藩主・島津重豪と側室・牧野千佐との間に重豪の十三男として生まれる。千佐は家臣の家で働く身分の女性だったが、重豪も圧倒されるほどの大柄で大酒飲みだったと言われ、惚れ込んだ重豪の求めによって側室となった。そんな母の血を継いだ長溥もまた大柄であった。2歳年上の大甥・斉彬とは兄弟のような仲であったという。

文政5年(1822年)、第10代福岡藩主・黒田斉清と正室・宝林院(二条治孝の娘)の娘・純姫と婚姻、婿嗣子となる。養父同様、将軍徳川家斉の偏諱を授かって黒田斉溥と称した(家斉は斉溥からみて養父の伯父、また姉の広大院が家斉の御台所であることから義兄にあたる)。天保5年(1834年)11月6日、斉清の隠居により家督を相続した。就任後は実父の重豪に倣って近代化路線を推し進めた。現在は歓楽街で有名な中洲の一部である博多岡崎新地に、精練所と反射炉を建設した。次いで見込みのある藩士を積極的に出島へ派遣し、西洋技術の習得に当たらせた。藩士たちの一部から福岡県で最初の時計屋や写真館を開く者が現れた。蘭癖と称された斉溥の西洋趣味はこれに留まらず、オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組んだ。他にも医術学校の創設や種痘の実施、領内での金鉱・炭鉱開発を推進したが、鉱山関連に関しては様々な困難や妨害に遭い、当時の日本における石炭を使った産業を育成しようとしたが、当時は技術がそれほど進んでおらず道半ばであった。

嘉永元年(1848年)11月、伊勢津藩主・藤堂高猷の三男・健若(のち慶賛、長知)を養嗣子とする。嘉永3年(1850年)、実家島津家の相続争い(お由羅騒動)に際し、斉彬派の要請に応じて、老中・阿部正弘、宇和島藩主・伊達宗城、福井藩主・松平慶永らに事態の収拾を求め、翌嘉永4年(1851年)にその仲介に努め、斉彬の藩主相続を決着させた。

嘉永5年(1852年)11月、福岡藩・佐賀藩・薩摩藩は、幕府からペリー来航予告情報を内達される。福岡・佐賀は長崎警備の任にあり、薩摩は琉球王国を服属させていたことから、外交問題に関係が深かったためである。情報を受けた斉溥は同年12月、徳川幕府に対して建白書を提出した。それは幕府の無策を批判し、ジョン万次郎の登用や海軍の創設を求めるものであった。一大名が堂々と幕府批判を行うということは、前代未聞の行動であった。結局建白書は黙殺され、その主張が採用されることはなかったが、斉溥や藩家老の黒田増熊が処分を受けることもなかった。

嘉永6年(1853年)7月、ペリー艦隊の来航を受けた幕府の求めに応じ、再度建白書を提出した。この中で、蒸気船を主力とした海軍による海防の強化、通商を開き欧米から先進技術を導入すること、アメリカ・ロシアと同盟すればイギリス・フランスにも対抗し得ることなどを主張している。

安政6年(1859年)には、再来日したシーボルトによる解剖学の講義を受け、死体を直接手にとってもいる。

元治元年(1864年)、参議となり、筑前宰相と呼ばれる。

斉溥は斉彬と同様、幕府に対しては積極的な開国論を述べている。慶応元年(1865年)、藩内における過激な勤王志士を弾圧した(乙丑の獄)。しかしその後は薩摩藩と長州藩、そして幕府の間に立って仲介を務めるなど、幕末の藩主の中で大きな役割を果たしている。斉彬派だったために様々な辛苦を受けた西郷隆盛は、斉溥に助けられた一人である。弾圧事件の前後から月代を剃らなくなり、また顎鬚も伸ばし放題にした。杉山茂丸らとも交流がある。

明治初期頃、名を長溥(ながひろ)と改めた。明治2年(1869年)2月5日には隠居して、養嗣子の長知に家督を譲っている。長知が岩倉使節団に随って海外留学する際に、金子堅太郎と團琢磨を出し、長知に随行させた。團は、かつて長溥が行った種痘の実験で長男を死なせた側近・神屋宅之丞の四男で、無残な結果を悔やんだ長溥の、神屋に対する詫びとしての指名だったとも言われている。

明治18年(1885年)、金子堅太郎の献策を採用し、旧福岡藩士との協議の末、黒田家の私学・藤雲館の校舎・什器一切を寄付し、旧福岡藩校修猷館を福岡県立修猷館(現福岡県立修猷館高等学校)として再興する。明治20年(1887年)3月7日、東京赤坂の黒田本邸にて77歳で死去した。墓所は青山霊園、高野山奥の院(三代藩主黒田光之墓所隣)。