
◆本多修之助
明治16年に韓国で最初の写真スタジオを開業したキム・ヨンウォン (Kim Yong-Won、金鏞元、1842生) は、明治19年に日本への渡航経験があり、本多修之助、亀谷徳次郎から写真術を学んだという。明治16年、韓国に渡り、キム・ヨンウォンの写真館開業を指導した後に、自身の写真館(南山植物園写真館)を開業した。明治17年、甲申政変(クーデター)の際、日本人写真館や建物は朝鮮人によって破壊された。その際、キム・ヨンウォンが本多修之助を自邸に避難させ助けたと伝えられているが、一方で殺害されたと記載された情報もある。甲申政変以降の足取りは不明。
◆ 亀谷徳次郎
旧姓は阿部寿八郎。長崎木下町唐物町扱役亀谷家の養子となり、オランダ館に出入りし写真術を学ぶ。長崎で手代役を務め、上野彦馬から写真を学ぶ。文久2年、長崎で開業。文久2年、富重利平に写真術を教えている。文久 3 年、辻礼輔、亀谷徳次郎、堀与兵衛らは写真材料の研究、紙焼写真の製造に成功。 慶応元年頃(または文久年間)、京都に出てきたと思われる。娘・亀谷とよと京都に出で、知恩院境内の茶屋の傍らに仮の写場を設け、京都勤番の諸大名を撮影。慶応2年、『新稿一橋徳川家記』(徳川慶喜)に、「京都二条堀川東入町・横田栄五郎定職人「阿部寿八郎」を写真師として抱え入れた」とある。 横田栄五郎は、横田朴斎の父と思われる。後に長崎に戻り写場を開いた。明治7年、金星を撮影。明治4年、長崎榎津町の吉井禎次郎を婿養子に迎え、娘・亀谷とよと婚姻。吉井禎次郎は朝鮮で写真師となった。朝鮮最初の写真家キム・ヨンウォンは、1876 年に日本に旅行した際、本多修之助、亀谷徳次郎から写真術を学んだという。
◆キム・ヨンウォン (Kim Yong-Won、金鏞元、1842生)
明治9年、修信使の技術職として日本を訪問。 明治12年頃、外交官・花房義質の勧めもあり写真術を学びはじめた。釜山の日本人居留地で日本人から写真術を学んだとされ、この頃に本多修之助、亀谷徳次郎と交流したと思われる。 明治14年、紳士遊覧団の一員として日本に派遣。ふたたび写真術を学んでいる。明治16年、本多修之助の助けを得て、漢城の苧洞に写真館を開業。