【古写真関連資料】篠山藩に写真術を伝えた安藤直紀。その息子・安藤紀三郎

安藤 紀三郎

安藤 直紀
息子の安藤紀三郎(明治12年生)は、陸軍中将、国務大臣、内務大臣を歴任した人物。
篠山藩士。父は内藤中虚。次男として生まれた。のち安藤家に養子に入り跡を継ぐ。明治元年頃、藩命で京都へ出張し、滞在中に写真術を学び、写真機材を購入し篠山へ持ち帰った。これによって、篠山に写真術がもたらされた。篠山城を県から300円で買い戻して篠山町に寄付。明治8年、旧城の大書院を弟子の教育の場にするため、「篠山小学校」を開設。明治9年、安藤直紀ほか藩士13名が、藩主・青山忠誠に協力して私立篠山中年学舎(私立鳳鳴義塾)を春日神社内に設け、藩内の弟子を教育した。明治12年、多紀郡長。明治16年、鳳鳴義塾長。明治21年、兵庫県会議員。明治22年、篠山町長。明治44年、死去。墓は来迎寺。歌人としても名を残している。

◆安藤紀三郎
日本の政治家、陸軍軍人。軍人としての最終階級は中将。太平洋戦争時の大政翼賛会副総裁、国務大臣、内務大臣。戦後、A級戦犯として逮捕された。兵庫県に生まれ、篠山藩士、鳳鳴義塾長で歌人の安藤直紀(内藤中虚の次男)の次男として生まれ、鳳鳴義塾中学を卒業。1899年(明治32年)、陸軍士官学校(11期)を卒業し、翌年、陸軍歩兵少尉となる。1901年(明治34年)、台湾守備歩兵第10大隊附となり、翌年、陸軍歩兵中尉となる。1904年(明治37年)、歩兵第10連隊中隊長となり、陸軍歩兵大尉となる。

1913年(大正2年)、陸軍歩兵少佐となる。1918年(大正7年)、アメリカ出張後、陸軍歩兵中佐となり帰国。1922年(大正11年)、陸軍歩兵大佐となる。1927年(昭和2年)、陸軍少将となる。1932年(昭和7年)、陸軍中将となり旅順要塞司令官となる。1934年(昭和9年)、予備役となる。1941年(昭和16年)、大政翼賛会副総裁となり、翌年には大日本翼賛壮年団長にもなる。1942年(昭和17年)、東條英機の腹心として東條内閣の無任所国務大臣となる。大日本翼賛壮年団中央本部長となる。1943年(昭和18年)、東條内閣の内務大臣、さらに防空総本部長官となる。

1944年(昭和19年)1月、第84回帝国議会で陸士同期の衆議院議員四王天延孝からのユダヤ人に関しての質問に対し、「日本国は太古から人種差別国家であってユダヤ人差別にも反対しない」と答えている[1]。7月、大臣辞任、貴族院議員に転出。1945年(昭和20年)12月、連合国より第三次戦犯指名され、A級戦犯として逮捕され収監。1948年(昭和23年)12月、釈放。この間に公職追放される。