
◆写真師・伊藤廣治
号は井森屋、伊守。 上野彦馬から写真術を学んだ。 明治 4 年頃、大阪御堂筋順慶町にと写場と西洋料理設の店舗を開業したが、間もなくして廃業。大阪南地九郎衛門町に移り写真を専業とし、芸妓、俳優、富豪が多く撮影に訪れ成功した。 明治 8 年、土産写真の複写について同業者間で論争が生じ、裁判所に出訴する事態になった際、大阪の写真師三十数名の代表者として守田来三と共に選ばれている。 また豪商・鴻池善右衛門(大坂の両替商・今橋鴻池家)に招かれ写真術を教えている。 明治 23 年、死去。 没後に伊藤廣次(伊藤栄吉)が継承している。
◆上田 竹翁
本名は上田寅之助、箸尾寅之助。号は竹軒樂人。
大阪上田家第十三代・上田文斎とやすの三弟。父・上田文斎(幼名は兵司。号は維暁)は漢方医であり、文人として『内国旅行日本名所図絵』全7巻を執筆している。上田文斎は適塾や京都舎密局に学び、和漢蘭学を修めた儒医で、上田家は十三代にわたって大阪で儒医として郷学を指導し医療にあたっていた。幕末には鴻池家と深い関係にあり、複数の藩の藩主お目見えの役職にあったことから、大名貸の取立てを手伝うなどしていた。
長兄・野々村藤助(本名は謙吉)は薬局経営をしており、引退後、朝鮮で料亭「白水」を経営し成功している。
次男・上田貞治郎は上田寫眞機店の経営者で上田家第十四代。
弟・青木恒三郎は明治・大正期大阪を代表する総合出版社「青木嵩山堂」を開業しており、『世界旅行万国名所図絵』『内国旅行日本名所図絵』を刊行。
上田竹翁は大阪船場に育ち、13歳で鴻池家の別家箸尾家を嗣ぎ箸尾寅之助と名乗った。
明治20年、今橋2丁目17番地の鴻池本邸に居住していた頃に日本人が作った最初の本格的な和英辞書『新訳和英辞書』という和英辞書を編纂。
鴻池家の教育として広くのことを学び、その後、高麗橋2丁目で洋雑貨商「竹屋」を営むなど、鴻池家の別家当主としての本業は放擲し、文人・趣味人として生活をする。
明治26年、アコーディオン演奏に関する書物『手風琴独案内』を出版し1万部以上を売り上げた。
明治26年、『漁釣新書 附:魚鼈繁殖孵化及金魚飼育法』『小禽狩猟新書 附:小鳥飼養法(安倍精一郎著)』を編集し青木嵩山堂から刊行。
明治30年、奈良時代から上流社会の婦女子の遊戯、嗜みであった盤双六の定石についての本『新撰雙陸独稽古』を青木嵩山堂から出版。
明治31年、煎茶道に関する小著『煎茶早学』を刊行。
明治36年、次兄上田貞治郎が創業した「上田写真機店」の社員となる。
上田写真機店で出版・編集部門を主に担当し、『写真要報』など写真術に関する多くの書物を出版した。
明治43年、上田編輯部でシュルツ・ヘンケによって考案された写実鉛筆画の技法を写真修正の技術としてわが国に最初に紹介。
大正9年、集大成として、アルファベット順に写真術にまつわるあらゆる項目を網羅・分類し、解説した『冩眞術百科大辞典』を上田写真機店から刊行。
大正10年、次男の箸尾文雄、写真家の不動健治らとともに「藝術冩眞社」を興す。
「コダック研究会」の幹事をもつとめ、さまざまな技術を通信教育によって伝授、普及させた。「日本冩眞学院」の講師もつとめた。
鴻池家の次男で、後に浄瑠璃研究となる鴻池幸武の家庭教師をして英語を教えるなどして余生を送った。昭和2年、海外での映画技術の発展を受けて『家庭活動写真術』を著わし、家庭活動写真の国内への普及を図った。
兄の貞治郎と同じく、クリスチャンでもあった。昭和16年死去。
◆鴻池 善右衛門
江戸時代の代表的豪商の一つである摂津国大坂の両替商・鴻池家(今橋鴻池)で代々受け継がれる名前である。家伝によれば祖は山中幸盛(鹿介)であるという。その山中鹿之助の子の、摂津国伊丹の酒造業者鴻池直文の子、善右衛門正成が摂津国大坂で一家を立てたのを初代とする。初め酒造業であったが、1656年に両替商に転じて事業を拡大、同族とともに鴻池財閥を形成した。歴代当主からは、茶道の愛好者・庇護者、茶器の収集家を輩出した。上方落語の「鴻池の犬」や「はてなの茶碗」にもその名が登場するなど、上方における富豪の代表格として知られる。明治維新後は男爵に叙せられて華族に列した。大阪市の本邸跡は現在大阪美術倶楽部となっている。
鴻池財閥は、江戸時代に成立した日本の財閥。16世紀末、鴻池家が摂津国川辺郡鴻池村(現・兵庫県伊丹市鴻池)で清酒の醸造を始めたことにはじまる。その後、一族が摂津国大坂に進出して両替商に転じ、鴻池善右衛門家を中心とする同族集団は江戸時代における日本最大の財閥に発展した。
9代目 鴻池 善右衛門(文化3年(1806年) – 嘉永4年6月20日(1851年7月18日))は、江戸時代後期の当主。名は幸実。号は炉雪(爐雪)。8代善右衛門幸澄の子。表千家10代瑞翁宗左(碌々斎)に師事し、茶人としても知られる。 天保の大飢饉で貧民に義援金を施したが、大塩平八郎の乱では焼討対象とされ、大損害を受けた。
10代目 鴻池 善右衛門(天保12年(1841年) – 大正9年(1920年))は、江戸時代後期から明治・大正まで活躍した当主。名は幸富(ゆきとみ)。嘉永4年(1851年)に家督を継承。明治維新後、第十三国立銀行(現、三菱UFJ銀行)を創設するなど、近代日本の金融・貿易の発展に尽力した。
11代目 鴻池 善右衛門(慶応元年5月25日(1865年6月18日) – 昭和6年(1931年)3月18日)は、明治・大正・昭和初期の当主。名は幸方、また始、善次郎とも称した。10代目善右衛門幸富の長男。明治17年(1884年)1月、家督を継承。日本生命保険の初代社長に就任、また第十三国立銀行頭取・大阪倉庫社長・関西大学評議員など務めた。明治30年(1897年)には鴻池銀行を設立した。明治44年(1911年)8月25日、父の功績によって男爵に叙せられる。姉は大阪市屈指の資産家に、妹は白木屋 (デパート)社長の大村彦太郎10代に嫁いだ。妻の路子は三井高保(三井室町家当主、男爵)の長女。長男は12代目善右衛門幸昌。次男鴻池幸武(よしたけ、1914年-1945年)は浄瑠璃研究の第一人者として知られる。