【古写真関連資料】幕末明治の狩野派絵師と、写真師たち(清水東谷、下岡蓮杖、岩橋教章)

【古写真関連資料】幕末明治の狩野派絵師と、写真師たち(清水東谷、下岡蓮杖、岩橋教章)
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清水 東谷
幼名=三吉、号=玉龍。本名、清水三吉。父は狩野派幕府御用絵師・静知齋洞章。父から絵を学んだ。安政元年、鍛冶橋狩野派に入門して「狩野玉龍」を名乗る。 安政 6 年、ドイツ人医師シーボルトに従い植物写生を手伝いながら、洋画と写真術を研究。文久 2 年、シーボルトが日本を去るとき、写真機や薬品を譲り受けたといわれる。明治 5 年、横浜弁天通り住吉町に写真館を開業。明治 5 年、東京日本橋に移転。明治 5 年、呉服町に移転。 その後横浜へ戻り、油絵を描いた。後に宮内省の御用写真師となっている。明治 14 年、第 2 回内国勧業博覧会の写真部門で最高賞。油彩も受賞。明治 40 年、死去。 弟の鈴木東谷は野毛山で写真館を開業。(のち 2 代目となる) 養子の清水条次郎は、妻の姉の子。(3 代目となる) 長男の鈴木鈴之助は横浜太田調で開業。 鈴木鈴之助の弟・鈴木攓雲は長崎・東京で開業するが、のち鈴木千里に事業を譲っている。明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷横山松三郎内田九一守山(森山)浄夢加藤正吉北丹羽(北庭)筑波小林玄洞」の名がある。

下岡 蓮杖
父は相州浦賀船改御番所勤番で判問屋・桜田与惣右衛門。三男。通称は久之助。 文政 11 年、下田町岡方村の下土屋善助(屋号・才善)の養子となる。 しかし、数年で養父母と死別し、実家に戻る。 天保 7 年、下田のお店で奉公していたが持続せず、江戸へ出て絵師を志す。 しばらくは師を求めながら、下田宮本氏の出であるという縁で鉄砲洲の出雲町七番地(銀座 8 丁目)の酒 屋・田野宇吉(加賀屋)を頼った。後に日本橋横山町の老舗足袋問屋に丁稚奉公。 しかし、志と違う仕事を続けられず、帰郷する。 天保 8 年頃、下田奉行所の砲台警備の足軽として採用された。 萩野流の砲術を中村藤一郎より学び、大砲を撃つ訓練なども行っていた。 砲台監督の畑繁八郎(畑藤三郎)により、弟である狩野董玉の師匠・狩野董川を紹介してもらう。 弘化元年、紹介状をも持ち、再び江戸に向かい狩野董川への弟子入りが叶った。 のち、董圓の号を与えられる。 弘化 2 年頃、三田島津家下屋敷(薩摩藩・旗本の家とも)に赴いた際、偶然に銀板(ダゲレオタイプ)写真を見て、絵筆では敵わない技術に驚き、写真術修得を志したとされる。 師の狩野董川に許しを得て、門下を離れた。 長崎へ写真探求を考えたが諦め、伯父の臼井正蔵を頼り、浦賀平根山砲台勤番として再び足軽となる。 弘化 3 年、ジェームス・ビッドル提督率いる米国東印度艦隊の帆船軍艦 2 隻が浦賀に来航(浦賀事件)、 それを描いている。この時、浦賀奉行・大久保因幡守より、「幕府の命により、軍艦の様子を絵図として 書き取るように」と申し付けられた。 嘉永 6 年、ペリー来航。この頃まで浦賀に在したが写真探求のチャンスは無かった。 嘉永 7 年、ペリーが再び来航。その際、従軍写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアが同船していた が、写真術を学ぶことはできなかった。 安政年間、下田玉泉寺がアメリカ領事館として使われた際に、御馳走係下番役として勤める。 このとき、オランダ人通詞・ヒュースケンから写真術を教わり、下田閉鎖に伴って江戸、横浜へ移った。 横浜でアメリカ人雑貨商、ラファエル・ショイヤーの下で雇われ、夫人(アンナ)から洋画を教わり作品 を残している。また、アメリカ人営業写真家、ウンシン(ジョン・ウィルソン)の婦人(ラウダー)を経 由して写真術を学んだ。 のち、自らの作品(絵)と好感して写真機材を手に入れ、独学で写真術の研究を行う。 文久 2 年頃、横浜野毛で開業。のち、横浜弁天通りに移る。 元治元年頃、横山松三郎が下岡蓮杖の弟子になっている。 慶応元年、一旦店を閉じて、妻子を連れて下田に帰省。 慶応 2 年、実子・東太郎が誕生。 慶応 3 年、長女・よし(尾形乾山に嫁ぎ、長女が尾形奈美)誕生。 慶応 3 年、再び横浜に戻り、馬車太田町角駒形橋の東詰(現在の中区太田町 5 丁目 77 番地東角)に家屋 を建築して写真館(相影楼・全楽堂)を開業。1 階で錦絵等の絵画を販売し、2 階を撮影場とした写真館 を建設し営業。 明治元年、弁天通り二丁目横通り南仲通り寄りにも写真館を建設したが明治 3 年に類焼。 写真以外に石版印刷、乗合馬車、コーヒー店、ビリヤード、牛乳販売等も取り組んだが多額の負債を負っ た。なお、 日本最初の一般営業鉄道は、横浜居留地と築地居留地を繋ぐものであり、下岡蓮杖が走らせた乗合馬車も同区間にあった。明治 3 年、弟子の横山松三郎と日光山の写真撮影旅行を行っている。 日光東照宮の輪王寺書役であった片岡久米(片岡如松)は、この影響で写真師となっている。 明治 7 年、岸田吟香松崎晋二は 陸軍省の依頼で台湾の役、台湾石門などに従軍しており、 岸田吟香下岡蓮杖には台湾の情報などを伝えていたという。明治 8 年(または 9 年)、東京・浅草公園五区四九番地に移転。書割等の作成をした。 この頃、中島待乳が教えを受けに訪れ蓮杖から写真機附属品等を譲り受けている。 明治 27 年、大日本写真品評会会員。 明治 39 年、浅草公園五区の店は息子の下岡東太郎に任せた。 大正元年、東京府から表彰されている。 大正 3 年、死去。

岩橋教章
幼名は新吾、のち教章。父は伊勢松阪藩士・木下新八郎。 安政 3 年に鳥羽藩士・岩橋庄助の養子となった。嘉永年間、江戸に出て、狩野洞庭(狩野教信)に絵を学び、洞翠と号した。また、漢学や蘭学を鳥羽藩の江戸藩邸詰侍医・安藤文沢(安藤忠恕)に学んだ。文久元年、軍艦操練所絵図認方として出役し、各地の測量および地図製作に従事。文久 2 年、イギリス人が日本沿岸を測量した際に、外国人が侵入できなかった土地(伊勢・志摩・尾張地方沿岸)の測量を請ける。 慶応年間、戦乱を避けてきた写真師・島霞谷島隆夫妻を自宅に住まわせ、写真術の手ほどきを受けた。 慶応 4 年、旧幕府軍に加わり開陽丸で江戸を脱出、砲手頭として箱館戦争に従軍。 明治 2 年、謹慎を命じられたが、翌年免除され、5 月には静岡学校付属絵図方に任じられる。 また、明治政府から兵部省出府を命じられ、海軍操練所に十三等の製図掛として出仕。 明治 6 年、ウィーン万国博覧会の際に博覧会御用として渡欧。 石版画を学び、次いで維納府地図学校に入学し地図製作や銅版画を習得。 この頃のスケッチが神戸市立博物館に所蔵されている。 明治 7 年、帰国。その後は大蔵省紙幣寮や内務省地理寮に勤務し、伝習生に指導。 明治 11 年、『測絵図譜』出版。麹町区永田町の自宅に銅版彫刻の会社・文会舎を興して、門弟も指導。 この頃油彩画も手がけ、「明治八年出版皇國名誉君方獨案内」の最初に「油繪 岩橋教章 永田町」と紹介 されている。 明治 14 年、第 2 回内国勧業博覧会では、三区二類の審査員を務めた。 明治 16 年、死去。墓所は谷中霊園。 岩橋教章の油彩画は関東大震災で失われ現存しないとされている。 地図と書籍は現存するが、版画作品は現存していない。ウィーン帰国後の絵画作品は三重県立美術館所蔵 「鴨の静物」1 点のみ確認されている。 長男・岩橋章山は地図局雇となり銅版画制作を引き継ぐ。弟子に堀健吉など 。

◆狩野派
日本絵画史上最大の画派であり、室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団である。室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その子孫は、室町幕府崩壊後は織田信長、豊臣秀吉、徳川将軍などに絵師として仕え、その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、内裏、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。

江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。「奥絵師」と呼ばれる、もっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本(絵手本)を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。

奥絵師は旗本と同格で、将軍への「お目見え」と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。奥絵師の4家とは探幽(狩野孝信の長男)の系統の鍛冶橋家、尚信(孝信の次男)の系統の木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信(孝信の三男)の系統の中橋家、それに狩野岑信(みねのぶ、1662 – 1708)の系統の浜町家である(岑信は、狩野尚信の長男である狩野常信の次男)。探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(狩野益信、1625 – 1694)を養子とした。後に探幽が50歳を過ぎて生まれた実子である狩野探信守政(1653 – 1718)が跡を継ぐが、この系統からはその後見るべき画家は出なかった。探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した久隅守景(くすみもりかげ、生没年未詳)が著名である。守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。

前述のとおり、狩野家の宗家は、探幽の弟・安信の中橋家が継ぐことになった。安信の子の狩野時信(1642 – 1678)は30代で没し、その子の狩野主信(もりのぶ、号は主信しゅしん、1675 – 1724)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない。都会的な画風で人気を博した英一蝶(はなぶさいっちょう、1652 – 1724)は安信の弟子であった。奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の木挽町家である。この家系からは尚信の嫡男の狩野常信(1636 – 1713)、その子の狩野周信(ちかのぶ、1660 – 1728)と狩野岑信(みねのぶ、1662 – 1708)らが出ている。岑信は将軍・徳川家宣の寵愛を受け、後に「浜町家」として独立し、「奥絵師家」の1つに数えられるようになった。このほか、狩野興以(? – 1636)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後に紀州徳川家に仕えている。また、狩野内膳も他家の出身ではあるが、狩野松栄に絵を学び、子孫は表絵師の根岸御行松狩野家として幕末まで続いた。

一方、京都に残って活動を続けた「京狩野」という一派もあり、狩野永徳の弟子であった狩野山楽(1559 – 1635)がその中心人物である。山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。京都・大覚寺宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。山楽の娘婿で養子の狩野山雪(1589/90 – 1651)は、妙心寺天球院障壁画のほか、屏風絵などの現存作がある。樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。山雪の残した画論を、子の狩野永納(1631 – 1697)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『本朝画史』である。

木挽町家からは、江戸時代後期に栄川院典信(えいせんいんみちのぶ、1730 – 1790)、養川院惟信(ようせんいんこれのぶ、1753 – 1808)、伊川院栄信(いせんいんながのぶ、1775 – 1828)、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ、1786 – 1846)などが出ている。晴川院養信は、天保9年(1838年)と同15年(1844年)に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として指揮した。障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。晴川院は古画の模写や収集にも尽力した。一般に、江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。

晴川院の次代の勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ、1823 – 1880)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖(下関出身、1828 – 1888)と橋本雅邦(川越出身、1835 – 1908)がいた。芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。