
◆和田猶松
明治元年頃、暗室を担ぎ京阪神から東海道を巡行し、東京、日光まで撮影をして、写真を販売していた。 明治2年頃、大阪で開業。 のち新町橋東詰に移住したという。 息子に和田奈良松(古写真収集家)がいる。
◆上野文七郎
宇都宮上野家は、屋号を『油松』といい、代々油屋松次郎の名で業務を急拡大させた家柄。上野文七郎は分家で、薬種商・唐物商としてガラスや洋酒等の舶来品の販売を手がけ、のち写真師となった。別名は上埜文七郎。「写真館上埜」の館名が残っている。明治12年、米国のグラント元大統領一行が日光を訪れた際、伊藤博文、西郷従道ら政府高官との記念撮影をしている。明治16年10月より明治17年まで栃木県令・三島通庸の御用写真師として栃木地方の公的な写真を撮影している。なお、三島通庸は明治9年から明治15年まで山形県令であり、その際は菊池新学を山形の御用写真師として任命している。明治17年、栃木県庁を撮影。この写真が洋画家・高橋由一(明治 9 年、菊池新学は山形県下の近代化促進事業を画家の高橋由一と共に記録する仕事を始めている。)が描いた県庁の元となった。明治31年、死去。上野氏の祖先は越後の出身という。宝暦7年の越後は2度の飢饉に見舞われ、多くの越後人が郷里を捨て下野国に流れてきた。上野家も同じく、明和5年に宇都宮材木町六道で家を興した。上野文七郎は初代・上野松次郎の子と思われる。創業者・上野新兵衛(延享3年~文化8年、上野吉右衛門とも)は、宇都宮材木町六道で家を興した。初代・上野松次郎(天明8年~安政2年、幼名:上野武房)は、上野新兵衛の長男で、家業の製油業に専念し、屋号を『油松(材木町油屋松次郎)』とした。商いは急拡大し、手狭となった土地家屋を現在の本家がある本郷町へ移転。2代目・上野松次郎(文政10年~安政2年)は、初代・上野松次郎の長男で、家業に専念していたが、父の死後4か月にして没した。3代目・上野松次郎(天保5年~大正6年、幼名:上野栄次郎)は、初代・上野松次郎の次男で、兄の死後、兄の妻(てつ)と結婚し商いを拡大させ、宇都宮金満家番付に名を連ねるまでになった。4代目・上野松次郎(嘉永元年~大正8年、幼名:上野もと)は、2代目・上野松次郎の長女で、明治10年に養父(3代目・上野松次郎)から家督を相続した。実質の経営は3代目が行っていたという。5代目・上野松次郎(万延元年~昭和14年、幼名:上野豊次郎)は、4代目・上野松次郎の長女(タミ)と結婚し婿養子となる。千葉県銚子市に鵜月家の出身という。宇都宮市議会議長、宇都宮商工会議所初代会頭、下野中央銀行頭取など複数の要職を務めた。6代目・上野松次郎(明治20年~昭和29年、幼名:上野順一)は、5代目・上野松次郎の長男。父同様に要職を務め、貴族院議員にもなっている。7代目・上野俊三(明治34年~昭和63年)へと家業は続いた。
◆金丸 源三
甲斐国生まれ。代々武田家家臣・土屋氏の家来の家柄。 本姓は高橋。島霞谷に写真術を学ぶ。 明治初年、東京浅草厩橋で開業。 勝海舟や山岡鉄舟、山内容堂、吉原芸妓・今紫、人気役者・沢村田之助などの肖像を撮った。 日光風景を撮影して鶏卵紙に焼付け、海外へも輸出された。 明治元年、玉村康三郎が写真術を学んでいる。 息子に金丸亦四郎 。金丸亦四郎の開業地と同地区で写真師となっている金丸せいも縁者と思われる。
◆ 横山松三郎
別名は横山文六(三代)。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、国後島・択捉島間の航路を開拓した豪商の廻船商人・高田屋嘉兵衛および高田屋金兵衛に仕え、冬期以外は箱館から択捉島に出向き、漁場を管理(支配人)していた。 天保 4 年、高田屋が闕所処分を受ける。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、その後も松前藩の場所請負人制となり択捉島で引き続き支配人を務めた。 嘉永元年、父が亡くなり、家族とともに箱館に帰る。 嘉永 5 年、箱館の呉服屋で奉公する。 画を好み、葛飾北斎の漫画を写していたという。 嘉永 7 年、ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、写真を知る。 安政 2 年、商店を開いた。安政3年、箱館に「諸術調所」という洋式学問所を開設し、横山松三郎は諸術調所で武田斐三郎から薬品の調合を学んでいた。 武田斐三郎は宮下欽の縁者である牧野毅と強く関わっている人物。安政 4 年、病気のため商店を閉店。この頃、写真機の製作を試みる。 安政 6 年、箱館が自由貿易港となり、米国人・露国人・英国人が住むようになると、彼らから洋画・写真 術を学んだ。 ロシア領事ヨシフ・ゴシケヴィッチから昆虫の実写画を頼まれ、その代わりに写真術を学んだ。 文久元年、ロシア領事館の神父・ニコライを通じて、ロシア人通信員レーマンの助手となり、洋画を学ぶ。 文久 2 年、海外で写真を学ぼうと、箱館奉行所の香港・バタヴィア行貿易船「健順丸」に商品掛手附とし て乗り込む。しかし、品川港で渡航中止となってしまった。 元治元年、上海へ渡航が叶う。欧米の洋画・写真を見聞した。 帰国後、横浜で 下岡蓮杖に印画法を教わる。 のち箱館に戻った。 慶応元年、再び上京し下岡蓮杖に写真と石版術を教わる。 慶応元年、箱館に戻り、木津幸吉・田本研造に印画法を教えた。 明治元年、下岡蓮杖に再び石版印刷を学んだ後、江戸両国元坊に写真館を開く。 明治元年、上野池之端に移転し、館名を「通天楼」とした。「通天楼」は、写真館兼私塾であったという。明治元年頃、中島待乳は横山松三郎に師事し、修正術・採光法を学んだ。 なお、待乳の号は横山松三郎が浅草名勝待乳山に因んで付けたとされる。 明治元年、宮下欽が学んでいる。 宮下欽は門人として技術を磨いていただけでなく、「通天楼」の経営面にも奔走していたという。明治 3 年(2 年とも)、門人たちと共に日光山に赴き、中禅寺湖や華厳滝、日光東照宮などを撮影。 片岡如松は日光山撮影に訪れた横山松三郎に同行し、写真術を習う。 岩の上で帽子を振る横山松三郎の様子を撮影している。 横山松三郎の「松」の字をとり、片岡久米から片岡如松と改める。 明治 4 年、蜷川の依頼で、内田九一と共に荒れた江戸城を撮影。 明治 5 年、蜷川式胤により『旧江戸城写真帖』計 64 枚に編集。洋画家・高橋由一によって彩色された。 明治 6 年、通天楼に洋画塾を併設。亀井至一や亀井竹二郎、本田忠保などの画家を育てた。 明治 7 年、漆紙写真と光沢写真を作った。 明治 7 年、成田常吉が学んでいる。 明治 8 年、菊地新学が学んでいる。 明治 8 年頃、山田境が学んでいる。 明治 9 年、織田信貞に通天楼を譲渡して、陸軍士官学校教官となる。 フランス人教官アベル・ゲリノーから石版法や墨写真法などを教わる。 明治 11 年、士官学校の軽気球から日本初の空中写真を撮影。 明治 13 年頃、「写真油絵法」を完成させる。 明治 13 年、田中美代治が学んでいる。 明治 14 年、陸軍士官学校を辞し、『写真石版社』を銀座に開く。 明治 17 年、市谷亀岡八幡宮社内の隠居所にて死去。墓地は函館の高龍寺。 明治 18 年、写真油絵技法は弟子の小豆澤亮一に継承された。 弟・横山松蔵は北海道で写真師となっている。 妻は紙半旅館(下鉢石町)の主人・福田半兵衛の長女・ 蝶(ちょう)。甥の慶次郎(松三郎の妹・千代の息子)はのち養子に迎え、「横山慶」と改名。明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷、横山松三郎、内田九一、守山(森山)浄夢、加藤正吉、北丹羽(北庭)筑波、小林玄洞」の名がある。
◆ 下岡蓮杖
父は相州浦賀船改御番所勤番で判問屋・桜田与惣右衛門。三男。通称は久之助。 文政 11 年、下田町岡方村の下土屋善助(屋号・才善)の養子となる。 しかし、数年で養父母と死別し、実家に戻る。 天保 7 年、下田のお店で奉公していたが持続せず、江戸へ出て絵師を志す。 しばらくは師を求めながら、下田宮本氏の出であるという縁で鉄砲洲の出雲町七番地(銀座 8 丁目)の酒 屋・田野宇吉(加賀屋)を頼った。後に日本橋横山町の老舗足袋問屋に丁稚奉公。 しかし、志と違う仕事を続けられず、帰郷する。 天保 8 年頃、下田奉行所の砲台警備の足軽として採用された。 萩野流の砲術を中村藤一郎より学び、大砲を撃つ訓練なども行っていた。 砲台監督の畑繁八郎(畑藤三郎)により、弟である狩野董玉の師匠・狩野董川を紹介してもらう。 弘化元年、紹介状をも持ち、再び江戸に向かい狩野董川への弟子入りが叶った。 のち、董圓の号を与えられる。 弘化 2 年頃、三田島津家下屋敷(薩摩藩・旗本の家とも)に赴いた際、偶然に銀板(ダゲレオタイプ)写真を見て、絵筆では敵わない技術に驚き、写真術修得を志したとされる。 師の狩野董川に許しを得て、門下を離れた。 長崎へ写真探求を考えたが諦め、伯父の臼井正蔵を頼り、浦賀平根山砲台勤番として再び足軽となる。 弘化 3 年、ジェームス・ビッドル提督率いる米国東印度艦隊の帆船軍艦 2 隻が浦賀に来航(浦賀事件)、 それを描いている。この時、浦賀奉行・大久保因幡守より、「幕府の命により、軍艦の様子を絵図として 書き取るように」と申し付けられた。 嘉永 6 年、ペリー来航。この頃まで浦賀に在したが写真探求のチャンスは無かった。 嘉永 7 年、ペリーが再び来航。その際、従軍写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアが同船していた が、写真術を学ぶことはできなかった。 安政年間、下田玉泉寺がアメリカ領事館として使われた際に、御馳走係下番役として勤める。 このとき、オランダ人通詞・ヒュースケンから写真術を教わり、下田閉鎖に伴って江戸、横浜へ移った。 横浜でアメリカ人雑貨商、ラファエル・ショイヤーの下で雇われ、夫人(アンナ)から洋画を教わり作品 を残している。また、アメリカ人営業写真家、ウンシン(ジョン・ウィルソン)の婦人(ラウダー)を経 由して写真術を学んだ。 のち、自らの作品(絵)と好感して写真機材を手に入れ、独学で写真術の研究を行う。 文久 2 年頃、横浜野毛で開業。のち、横浜弁天通りに移る。 元治元年頃、横山松三郎が下岡蓮杖の弟子になっている。 慶応元年、一旦店を閉じて、妻子を連れて下田に帰省。 慶応 2 年、実子・東太郎が誕生。 慶応 3 年、長女・よし(尾形乾山に嫁ぎ、長女が尾形奈美)誕生。 慶応 3 年、再び横浜に戻り、馬車太田町角駒形橋の東詰(現在の中区太田町 5 丁目 77 番地東角)に家屋 を建築して写真館(相影楼・全楽堂)を開業。1 階で錦絵等の絵画を販売し、2 階を撮影場とした写真館 を建設し営業。 明治元年、弁天通り二丁目横通り南仲通り寄りにも写真館を建設したが明治 3 年に類焼。 写真以外に石版印刷、乗合馬車、コーヒー店、ビリヤード、牛乳販売等も取り組んだが多額の負債を負っ た。なお、 日本最初の一般営業鉄道は、横浜居留地と築地居留地を繋ぐものであり、下岡蓮杖が走らせた乗合馬車も同区間にあった。明治 3 年、弟子の横山松三郎と日光山の写真撮影旅行を行っている。 日光東照宮の輪王寺書役であった片岡久米(片岡如松)は、この影響で写真師となっている。 明治 7 年、岸田吟香、松崎晋二は 陸軍省の依頼で台湾の役、台湾石門などに従軍しており、 岸田吟香は下岡蓮杖には台湾の情報などを伝えていたという。明治 8 年(または 9 年)、東京・浅草公園五区四九番地に移転。書割等の作成をした。 この頃、中島待乳が教えを受けに訪れ蓮杖から写真機附属品等を譲り受けている。 明治 27 年、大日本写真品評会会員。 明治 39 年、浅草公園五区の店は息子の下岡東太郎に任せた。 大正元年、東京府から表彰されている。 大正 3 年、死去。
◆ 片岡如松
片岡家の祖先は片岡勘右衛門貞好といい、会津の大名・蘆名義広の家臣であった。伊達政宗が蘆名と開戦(関柴合戦)を発端にして、天正14年、蘆名氏崩壊に伴い、片岡勘右衛門貞好は、異父兄弟であった天台宗大僧正・慈眼大師(天海)の援助によって、 日光山輪王寺宮に就いた。なお 慈眼大師は蘆名氏の一族とされている。父は片岡謙蔵。旧名は片岡久米。幼名は片岡富次郎。日光山輪王寺宮の書役。伯父・鈴木松亭で算術などを学ぶ。明治3年(2年とも)、日光山撮影に訪れた 横山松三郎 に同行し、写真術を習う。岩の上で帽子を振る横山松三郎の様子を撮影している。横山松三郎の松の字をとり、久米から如松と改める。明治4年、栃木に移って片岡写真館を開店し、栃木初の営業写真師となる。主に建造物を被写体に選び、栃木県庁や栃木駅、栃木警察署などの写真を残した。
◆栃木日光
古くは鎌倉時代以降、日光権現を祀る山々が知られるようになり、江戸時代に徳川家康および徳川家光の廟地となって以来、日光東照宮の鳥居前町として参拝客で賑わった。以後「日光を見ずして結構と言うこと莫れ」という言葉で日本中に観光地・景勝地として知られるようになった。明治時代に入ると、海外でも景勝地として知られていた日光東照宮や中禅寺湖、日光湯元温泉などを外国人が訪れるようになり、外国人に対応した宿泊・滞在施設が整備され、国際観光都市としての体裁が整えられていった。2006年(平成18年)3月20日に今市市と(旧)日光市の2つの市と足尾町と藤原町と栗山村の3つの町村が合併して現在の日光市が発足した。2006年以後の日光市役所本庁は旧今市市役所(今市本町)であり、合併後最初の日光市長は元今市市長が務めていた。この合併により、「門前町」日光は元より、日光江戸村など周辺の観光地も「日光市」に含まれることとなった。面積は関東地方で最大、全国の市でも岐阜県高山市と静岡県浜松市に次いで全国第3位となり、栃木県全体の約22%を占めている。観光キャッチフレーズとして「四季の彩りに風薫るひかりの郷」を掲げ、国際観光都市としての振興を図っている。市内の観光地・景勝地としては、旧日光[注釈 3]の日光の社寺や、エリアとしての日光[注釈 4]の日光連山(男体山、大真名子山、小真名子山、女峰山、赤薙山、太郎山など)、中禅寺湖、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯ノ湖や日光湯元温泉、そして行政地域としての現日光市域の鬼怒川温泉、川治温泉、湯西川温泉、鬼怒沼湿原、龍王峡、足尾銅山などがある。1993年には「東武ワールドスクウェア」が開業し(2017年に最寄り駅も整備された)、1999年には「日光の社寺」が世界遺産に登録された。この他には、建築家(丹下健三、芦原義信、隈研吾、アントニン・レーモンド等)による近・現代建築が多数存在する地域でもある。江戸時代以前、日光は日光山の門前町、修験道の道場であり山岳信仰の聖地であった。鎌倉時代には日光権現として知られていた。その後、徳川家康が覇権を握ると家康に仕えその深い信頼を得ていた慈眼大師天海が家康の力により日光山貫主となり、家康の死後はその進言により家康の神号が権現となり廟所も日光東照宮となった。日光が参詣客(物見遊山)で賑わうようになったのはこの頃からである。日光参詣のために、日光街道を初め、日光西街道(壬生通り)、日光例幣使街道、日光北街道、会津西街道など、多くの参拝路が整備された。明治時代に入ると富国強兵の国策のもと、海外からお雇い外国人が渡航するようになり、当時海外にも広く知られていた景勝地日光を訪れる外国人が増えた。イザベラ・バードやフランツ・フェルディナント大公は日光滞在中の出来事を手記として残し、当時の日光の様子を知る貴重な文献として知られている。こうした外国人が日光に快適に滞在・宿泊するため、ホテルなどの施設が整備され、以後、国際観光都市として広く世界に知られるようになった。特に日本駐在大使館・領事館の別荘が多く建てられ、「夏になると外務省が日光に移る」といわれるほどであった。その名残で現在も日光には洋風建築が多く残っている。