
◆山本讃七郎
祖父は後月郡梶江村(井原市芳井町梶江)庄屋・山本能通(山本仙五郎、山本 吉右衛門、山本 重兵衛、山本朴介)。 祖母は、小田郡甲怒村の大山家出身。 父は祖父の庄屋を継いだ山本実太郎。 母は川上郡九名村(美星町友成)代官横田政明の娘・ 横田林(りん)。明治元年頃、漢学者、儒学者の阪谷朗廬と山鳴弘斎の三男・山鳴清三郎(または坂田警軒の兄・坂田待園) が大坂で学んだ湿板写真を披露。初めて写真を見た。 明治 4 年、兄・山本讃太郎(別名は楫江順。陸軍参謀本部陸地測量部測量士)を頼って上京。 明治 10 年(7 年とも)、叔父の山本梅園の師、林洞海の子、林董の書生となり写真術を学ぶ。 また、横山松三郎にも学び、横山松三郎門下の中島待乳の門に入った。 なお、叔父の山本梅園は、同郷の芳井町出身の蘭方医、一橋家の御典医。 明治 15 年、芝日影町一丁目 1 番地で開業。 明治 22 年、明治天皇の鳳輦を撮影。 明治 27 年頃、鹿島清兵衛の玄鹿館主任技師。 明治 29 年、玄鹿館が倒産。 明治 30 年、当時、清国駐剳全権公使であった林董に誘われ北京へ移る。 北京霞公府街を拠点に城内外を撮影。明治33年9月14日の新聞記事に、山本讃七郎の語った記事がある。内容は北京で西太后とともに籠城し九死に一生を得たこと。助手の「渡辺友吉」「松本幸八」を連れてふたたび清へ渡り、写真館を開いたたことなどが語られている。明治 33 年、帰国し、芝日影町一丁目 1 番地の写真館を従兄弟の横田雄寿に譲る。 ふたたび北京に移動。 しかし義和団の乱が起こり休業。 居留民義勇隊に属して、一等軍医・中川十全の助手を務めた。 明治 34 年、勲八等瑞宝章。 明治 35 年、従軍記章を受章。 明治 34 年、中国に戻り、霞公府街に山本照像(相)館を開業。 明治 37 年、頤和園に招かれ、西太后を撮影。 明治 39 年、関野貞の古建築・遺跡調査に参加。 明治 44 年、山本照像(相)館を甥・山本素卜に任せて帰国。 明治 44 年、麻布区我善坊町 28 番地(港区麻布台一丁目 1 番)に移住。 明治 45 年、林董の別荘があった神奈川県葉山町堀内に移住。 のち山本照像館は王府井大街 26 号に移転し、長男・山本明が継いだ。 昭和 4 年頃、両親のいる大田区田園調布に移住。 昭和 5 年、山本明は山本照像館を岩田秀則に譲る。 昭和 7 年頃、赤坂区青山南町二丁目 10 番地に山本写真館を構え、山本明の一家と同居。 昭和 18 年、死去。墓地は世田谷区烏山町・幻照寺。
◆小倉 倹司
陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師。 日本で最初のフィルムによる写真撮影を実施したとされる者として知られている。 大阪英語学校に学んだ後上京。英語の書物によって写真術を自習した。 明治 14 年、杉山新十郎(福山藩士、のち官吏、尾道市長。号は不求居士)に師事。 明治 20 年(19 年とも)、陸地測量部の前身組織である参謀本部陸軍部測量局に技生傭として奉職。 明治 22 年、小川一眞、江崎礼二やバルトンらとともに日本写真会の創立に参加。 明治 24 年、在官のまま帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)に入り、化学を修めた。 明治 26 年、鹿島清兵衛らと大日本写真品評会を設立し、幹事に就任。 明治 27 年、日清戦争に陸地測量部の従軍写真班として従事。 このときの撮影は、日本で最初の公式戦争記録であり、最初の写真フィルム使用のとされている。 明治 28 年、オーストラリア留学を命ぜられ、ウィーンで写真製版術を研究。このときに三色版を知る。 明治 35 年、明治天皇にその概要と印刷方法を進講した。 明治 36 年、海軍水路部の写真部を兼務し、その拡大に大きく貢献。 明治 37 年、日露戦争で大本営写真班長に任ぜられ、歴史的な場面を写真に収めた。 明治 37 年、高等官六等に陞進。 大正 3 年、東京対象博覧会審査員となり、印刷部の首座を担当。 大正 7 年、勲三等瑞宝章。 大正 8 年、従五位。 大正 8 年、依願免官となり、引き続き陸地測量部において写真製版に関する業務嘱託となった。 大正 10 年、欧米に再遊。その他、写真団体の審査員なども数多く務め、晩年は鎌倉、長谷に隠棲した。 昭和 21 年、死去。
◆宇田川 準一
津山藩医・宇田川興斎の長男。 祖父・飯沼慾斎、父・興斎と同様に、写真術の研究も行い、「脱影奇観和解」を翻訳・出版。 文久元年、蘭学者・坪井信良に医学、蘭学をまなぶ。 儒学者・昌谷精渓・ 昌谷千里には漢学を、川本幸民に洋学を学んだとされる。 明治初期、大阪理学校で理化学を専攻し、箕作秋坪(洋学者(蘭学者)、教育者、啓蒙思想家)の三叉学舎で英学を学んだ。 明治 6 年、東京師範教員となり、当時の物理学所の代表的作物となる「物理全志」を刊行。 明治 14 年、英国の科学者ロスコーの「化学」をもとに「化学階梯」を翻訳・刊行。 のち群馬師範教頭。陸軍省陸地測量部に勤めた後、ラサ鉱業(東証一部)重役などを歴任。 大正 2 年、死去。
◆岩橋 教章
幼名は新吾、のち教章。父は伊勢松阪藩士・木下新八郎。 安政 3 年に鳥羽藩士・岩橋庄助の養子となった。嘉永年間、江戸に出て、狩野洞庭( 狩野教信)に絵を学び、洞翠と号した。 また、漢学や蘭学を鳥羽藩の江戸藩邸詰侍医・安藤文沢(安藤忠恕)に学んだ。 文久元年、軍艦操練所絵図認方として出役し、各地の測量および地図製作に従事。文久 2 年、イギリス人が日本沿岸を測量した際に、外国人が侵入できなかった土地(伊勢・志摩・尾張地方沿岸)の測量を請ける。 慶応年間、戦乱を避けてきた写真師・島霞谷、島隆夫妻を自宅に住まわせ、写真術の手ほどきを受けた。 慶応 4 年、旧幕府軍に加わり開陽丸で江戸を脱出、砲手頭として箱館戦争に従軍。 明治 2 年、謹慎を命じられたが、翌年免除され、5 月には静岡学校付属絵図方に任じられる。 また、明治政府から兵部省出府を命じられ、海軍操練所に十三等の製図掛として出仕。 明治 6 年、ウィーン万国博覧会の際に博覧会御用として渡欧。 石版画を学び、次いで維納府地図学校に入学し地図製作や銅版画を習得。この頃のスケッチが神戸市立博物館に所蔵されている。 明治 7 年、帰国。その後は大蔵省紙幣寮や内務省地理寮に勤務し、伝習生に指導。明治 11 年、『測絵図譜』出版。麹町区永田町の自宅に銅版彫刻の会社・文会舎を興して、門弟も指導。 この頃油彩画も手がけ、「明治八年出版皇國名誉君方獨案内」の最初に「油繪 岩橋教章 永田町」と紹介 されている。 明治 14 年、第 2 回内国勧業博覧会では、三区二類の審査員を務めた。 明治 16 年死去。墓所は谷中霊園。岩橋教章の油彩画は関東大震災で失われ現存しないとされている。 地図と書籍は現存するが、版画作品は現存していない。ウィーン帰国後の絵画作品は三重県立美術館所蔵 「鴨の静物」1 点のみ確認されている。 長男・岩橋章山は地図局雇となり銅版画制作を引き継ぐ。弟子に堀健吉など 。
◆岩橋章山
銅石版画家・岩橋教章の長男。幼名は米次郎。 父から銅版の技法を学ぶ。 明治 16 年、内務省地理局に勤務の傍ら、東京麹町区永田町の自宅に銅版彫刻印刷所を開設。 明治 19 年、陸軍技手となり、陸地測量部で銅版技術を指導。のち陸軍六等技師となる。 明治 22 年、陸地測量部内の修技所助教となった。 明治 23 年、官を辞して銅版彫刻を専業とする。 明治 32 年、台湾総督府からパリ万国博覧会の事務を嘱託され、台湾に赴任。 明治 33 年、台湾日日新聞に入り、同地で銅石版術を指導。 帰国後は写真製版の研究を始め、再び台湾に渡り台北に製版所を開いた。 大正 4 年、辻本写真工芸社に入社し、グラビール銅凹版の研究に従事。 「朝日グラフィック」の生みの親とされる。
◆辻礼輔
号は測成堂。 蘭学者とされる。嘉永年間、長崎に出てオランダ理化学・製薬・測量などを学んだ。 のち京都に住んで写真材料の研究や紙焼写真の製造を行う。文久年間、明石博高が学んでいる。 文久 2 年、堀真澄(初代)が学んでいる。 文久 3 年、辻礼輔、亀谷徳次郎、堀与兵衛らは写真材料の研究を行い紙焼写真の製造に成功した。
◆陸地測量部
日本陸軍参謀本部の外局で国内外の地理、地形などの測量・管理等にあたった、現在の国土地理院の前身の一つである国家機関。前身は、1871年(明治4年)7月兵部省に陸軍参謀局が設置された時まで遡り、直前の組織は参謀本部測量局(地図課及び測量課が昇格した)で、1888年(明治21年)5月14日に陸地測量部條例(明治21年5月勅令第25号)の公布とともに、参謀本部の一局であった位置付けから本部長直属の独立官庁として設置された。発足当初は参謀本部庁舎[1]の3階を間借りしてのスタートであったが、参謀本部中枢が同庁舎北に新庁舎を建設・移転[2]の後は、同庁舎を全面的に占用するに至った。現在もなお公的建築物として機能している日本水準原点は、当時の庁舎敷地内(東京三宅坂国会前庭付近)に設置されたものである。発足時には三角・地形・製図の三科及び修技所(後の国土交通大学校の元となる組織。現在の国土交通省、総務省庁舎敷地に設置)が置かれ、初代部長には測量局長に引き続いて小菅智淵工兵大佐が任命された。以来陸地測量部長には陸軍中将若しくは陸軍少将又は工兵大佐が、各科長には工兵大佐又は中佐が、修技所長には工兵中佐又は少佐が発令されている。1903年(明治36年)5月31日、修技所が元臨時陸軍建築部跡に移転。その後1941年(昭和16年)4月、陸地測量部條例の全部改正となる「陸地測量部令(昭和16年勅令第505号)」により、新たに総務課が設置され、従来の三角科が第一課に、地形科が第二課に、製図科が第三課に、また修技所が教育部に改組された。戦前の地図データはこの陸地測量部による物で、終戦により参謀本部が解体されるのに伴い業務は内務省地理調査所に移管され、その後国土地理院となって現在に至る。