
◆岸田 吟香
「清国上海河南路写真器機械品売捌所」と記載された文献が残っている。
幼名は岸田辰大郎。名前は岸田大郎、岸田大郎左衛門、岸田達蔵、岸田称子麻呂、岸田清原桜、岸田作良、岸田さくら、岸田まゝよ、岸田銀次、岸田銀次郎など。ほかに墨江岸国華、墨江桜、墨江岸桜、岸国華、岸吟香、岸大郎、岸桜、小林屋銀次、岸田銀治、岸田屋銀治、京屋銀治郎、桜井銀治郎なども名乗っている。号は岸田吟香、岸田東洋、岸田桜草。筆名には岸田吟道人がある。
父は大百姓、岸田修治郎。天保9年、垪和村の宝寿寺住職に学んだ。
天保9年、鍋島藩の『御次日記』に、客人に饗応された献立に「御丼 生卵」という表記が見られ、日本で初めて卵かけご飯を食べた人物となっている。弘化2年、久米北条郡の安藤善一(安藤簡斎)に入門。嘉永5年、江戸に入る。嘉永6年、津山藩儒・昌谷精渓の赤松塾に入門、その紹介で林図書頭に入門。安政2年、三河国挙母藩の中小姓となり、大郎と改名(大郎左衛門とも)。年末、脚気悪化のため帰国療養。安政3年、大大坂で藤沢東畡の泊園書院(現・ 関西大学)で漢学を学ぶ。安政4年、江戸で藤森天山に入門。
安政5年、藤森天山が幕府に追われる身となる。
安政6年、藤森天山との関りが疑われ、幕府に追われ、上野国伊香保へ避難。
安政6年、江戸に戻り結婚するが流行病で1カ月ほどで妻が死去。文久元年、三河挙母藩で儒官に昇任するが脱藩、上州を経て江戸に入る。銀次と名乗り、深川で生活し妓楼箱屋の主人や湯屋の三助など下男として糊口をしのぎ、吉原に住んだ。当時、気ままに暮らす「ままよのぎん」と名乗っていたがことが転じて、「銀次」「銀公」と呼ばれるようになり、「吟香」と称するようになった。
陸游の詩の一節、「吟到梅花句亦香」からとったものであるともいう。文久3年、眼病を患い、箕作秋坪の紹介でヘボンを訪ねる。横浜でヘボンの『和英語林集成』編纂を助け始め、知り合ったジョセフ・ヒコに英語について学ぶ。年末、深川に移住。文久4年、日本最初の新聞『新聞誌(海外新聞)』をジョセフ・ヒコ、本間潜蔵とともに創刊。年末、うたと再婚し浅草に移住。慶応元年、横浜に移り、ヘボンの手伝いを本格的に始める。慶応2年、『和英語林集成』の印刷刊行のためにヘボンと上海へ渡航。慶応3年5月までの美華書館で印刷、校訂につとめた。慶応3年、辞書は完成し、7月に横浜の居留地で発売された。同年日本へ帰国すると、まもなくヘボンより処方を教授された眼薬「精錡水」の販売をはじめた。この美華書館は、アメリカ長老会が1860年に上海に進出・設立した印刷所で、第6代館長ウィリアム・ギャンブル (William Gamble) のもと、当時アジア最高の印刷所であったが、片仮名の活字がなかったために吟香の版下に基いて鑄造しなければならなかった。慶応4年、上海に渡航。上海に「精錡水」の取次所を設置。帰国後、『横浜新報・もしほ草』をヴァン・リードと発刊。横浜東京間の定期航路を運営。
明治2年、氷製造販売開始。横浜海産物問屋小林屋の娘小林勝子16歳と再婚。上野観成院早川久満方に起居。明治3年、北海道函館で氷の製造開始。横浜に玩具古物の店をひらく。明治4年、横浜氷室商会設立。明治5年、「東京日日新聞」創刊に関係する。岡山に帰省。明治6年、関西遊覧しつつ東京日日新聞へ記事を送る。伊香保での病気療養ののち、「東京日日新聞」に主筆として入社。
明治7年、台湾出兵に従軍して『台湾従軍記』を連載。写真師・松崎晋二も従軍していた。写真師・下岡蓮杖には台湾の情報などを伝えていたという。
大倉喜八郎にクリスチャンであることを告白。「東京日日新聞」編集長となる。
明治8年、横浜から東京尾張町を経て秋には銀座に移る。
明治9年、明治天皇の東北北海道巡幸に随行。
明治10年、このころ「楽善堂」の屋号を掲げ始める。
明治11年、明治天皇の北陸東海巡幸に随行。明治13年、「精錡水」販売のために上海にわたり「楽善堂支店」開設し夏に帰国。
販路を各地に拡げる成功を収めた。榎本武揚・長岡護美・曽根俊虎らと興亜会(亜細亜協会)を組織。
明治15年、上海渡航。年内に帰国。中国で科挙用の袖珍本を出版し多大な利益を得る。明治16年、上海渡航、翌年まで中国に滞在。明治17年、年末帰国。
明治18年、上海渡航。
明治19年、上海渡航。漢口へ駐在武官として赴任する途中の荒尾精が吟香をたずね、のち「漢口楽善堂」を開設し大陸での諸調査を援助することになる。
明治21年、上海渡航、漢口旅行を経て翌年帰国。
明治24年、四男劉生誕生。
明治27年、勲六等に叙される。
明治30年、日本薬学会常議員となる。病死した荒尾精の同志たちとともに「同文会」を設立する。明治31年、「東亜会」と「同文会」が合併し「東亜同文会」成立。評議委員となる。明治32年、「善隣訳書館」(内外書物の中国語版を出版する)設立。明治33年、近衛篤麿と「国民同盟会」を組織。明治34年、近衛篤麿と「東亜同文医学会」を組織。明治35年、「東亜同文医学会」を発展させ「同仁会」を組織。明治38年、死去。晩年は『清国地誌』の編纂に努めたが完成を待たず、心臓病と肺炎のため亡くなった。墓は東京の谷中墓地にある。長男・岸田銀次は吟香より先に没し、次男の艾生が吟香の名を継いだ。第9子、四男・岸田劉生は洋画家であり、その下の弟岸田辰彌は宝塚歌劇団創設期の演出家。
◆宇田川興斎
父は美濃大垣藩医・飯沼慾斎。三男。 宇田川家は蘭学の名門として知られる。 天保 5 年頃、江戸詰めの大垣藩医の家から、師匠筋の宇田川家(津山藩医で蘭学者・宇田川榕菴)へ養子 に出され津山藩医となる。 弘化 3 年、家督を相続。 弘化 3 年、幕府天文台訳員となり、幕府外交文書の翻訳に従事。 嘉永 6 年、ペリー来航の際に箕作阮甫らと共に対米露交渉時に翻訳業で活躍。 安政 4 年、「英吉利文」上巻を編纂・刊行。 万延元年頃、蘭書から卵白湿板写真術の解説書「ホトガラヒイ」を翻訳。 文久元年、津山に戻り医業に専念。 明治 5 年、東京に移住し、蛎殻町 3 丁目の旧藩主松平家邸内に住んだ。 漢学、和歌、謡曲、囲碁などの趣味も高い技術を持っていたという。
◆宇田川 準一
津山藩医・宇田川興斎の長男。 祖父・飯沼慾斎、父・興斎と同様に、写真術の研究も行い、「脱影奇観和解」を翻訳・出版。 文久元年、蘭学者・坪井信良に医学、蘭学をまなぶ。 儒学者・昌谷精渓・ 昌谷千里には漢学を、川本幸民に洋学を学んだとされる。 明治初期、大阪理学校で理化学を専攻し、箕作秋坪(洋学者(蘭学者)、教育者、啓蒙思想家)の三叉学舎で英学を学んだ。 明治 6 年、東京師範教員となり、当時の物理学所の代表的作物となる「物理全志」を刊行。 明治 14 年、英国の科学者ロスコーの「化学」をもとに「化学階梯」を翻訳・刊行。 のち群馬師範教頭。陸軍省陸地測量部に勤めた後、ラサ鉱業(東証一部)重役などを歴任。 大正 2 年、死去。
◆箕作 阮甫
日本の武士・津山藩士、蘭学者である。名は貞一、虔儒。字は痒西、号は紫川、逢谷。津山藩医箕作貞固(三代丈庵)の第三子として美作国西新町(後に津山東町、現在の岡山県津山市西新町)に生まれる。医家[1]としての箕作は、阮甫の曾祖父貞辨(初代丈庵)からで、西新町に住み開業した。父貞固の代になり天明2年10月24日(1782年11月28日)津山藩主松平家の「御医師並」に召し出されて十人扶持をもって町医者から藩医に取り立てられた。阮甫は4歳で父をなくし、12歳で兄豊順をなくして、家督を相続することになる。藩の永田敬蔵(桐陰)・小島廣厚(天楽)から儒学を学ぶ一方、文化13年(1816年)には京都に出て、竹中文輔のもとで3カ年間医術習得にはげんだ。文政2年(1819年)には、修業を終えて京都から帰り、本町三丁目で開業、翌年大村とゐと結婚した。やがて高50石御小姓組御匙代にすすみ、文政6年(1823年)には、藩主の供で江戸に行き、宇田川玄真の門に入り、以後洋学の研鑚を重ねる。幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向く。蕃書調所の首席教授に任ぜられ、幕臣に取立てられた。日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、『外科必読』・『産科簡明』・『和蘭文典』・『八紘通誌』・『水蒸船説略』・『西征紀行』など阮甫の訳述書は99部160冊余りが確認されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。阮甫の子孫には有名な学者が多数輩出している。婿養子に箕作省吾・箕作秋坪が、娘婿に呉黄石が、孫に箕作麟祥・箕作佳吉・箕作元八・菊池大麓・呉文聰・呉秀三らが、孫娘の夫に坪井正五郎らが、曾孫に菊池正士・坪井誠太郎・坪井忠二・呉建・呉文炳・呉茂一らが、曾孫の夫に石川千代松・長岡半太郎・美濃部達吉・鳩山秀夫・末弘厳太郎らがいる。
◆箕作 秋坪
江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者(蘭学者)、教育者、啓蒙思想家。諱は矩、通称は文蔵、号は宜信斎。文政8年(1826年)、備中国(現・岡山県)の儒者・菊池陶愛(菊池應輔亮和の婿養子である医者菊池好直正因の養子である菊池慎の子。名は文理。通称は士郎)の次男として生まれた。はじめは美作国津山藩士の箕作阮甫、次いで緒方洪庵の適塾にて蘭学を学び、それぞれの弟子となった。嘉永3年(1850年)、阮甫の二女・つねと結婚して婿養子となり、つねとの間に、長男・奎吾(夭折)、次男・数学者の大麓(秋坪の実家・菊池家の養嗣子)、三男・動物学者の箕作佳吉、四男・歴史学者の箕作元八の4男をもうけた。幕末の外交多事のなか、幕府天文方で翻訳に従事する。安政6年(1859年)、幕府蕃書調所(東京大学の前身)の教授手伝となる。文久元年(1861年)の幕府による文久遣欧使節に福澤諭吉、寺島宗則、福地源一郎らと随行しヨーロッパを視察する。慶応2年(1866年)、樺太国境交渉の使節としてロシアへ派遣される。明治維新後は、かつての攘夷論者が率いる明治新政府に仕えるのを好まず、三叉学舎を開設。三叉学舎は当時、福沢諭吉の慶應義塾と並び称される洋学塾の双璧であり、東郷平八郎、原敬、平沼騏一郎、大槻文彦などもここで学んだ。また、専修学校(専修大学の前身)の開設においても、法律経済科を設置し創立者である相馬永胤らに教授を任せるなどの協力をしている。明治12年(1879年)、教育博物館(国立科学博物館の前身)の館長となり、従五位に叙せられた。明治18年(1885年)には東京図書館(帝国図書館及び国立国会図書館の前身)の館長も務めた。東京師範学校摂理も務めた。また、明治6年(1874年)、森有礼らと明六社を創立してまもなく社長に就任する。明治12年(1879年)、福澤諭吉、西周、加藤弘之らとともに東京学士会院の創設に参画し、創立会員7名の一人となる。秋坪は古賀侗庵に学んだ漢学の大家でもあった。教育者として、秋坪は2・3歳から6・7歳までの児童を教育することが最も効果的だと主張し、教育能力を欠く家庭の父母、特に女子への教育の重要性を説いた。妻・つねの死後、その妹で箕作省吾の未亡人であったしん(ちま、阮甫の三女)と再婚。しんとの間には長女・直子(人類学者の坪井正五郎に嫁ぐ)をもうけた。明治19年(1886年)、肺炎のため死去。