山本 讃七郎(やまもと さんしちろう)

祖父は後月郡梶江村(井原市芳井町梶江)庄屋・山本能通(山本仙五郎、山本 吉右衛門、山本 重兵衛、山本朴介)。 祖母は、小田郡甲怒村の大山家出身。 父は祖父の庄屋を継いだ山本実太郎。 母は川上郡九名村(美星町友成)代官横田政明の娘・ 横田林(りん)。明治元年頃、漢学者、儒学者の阪谷朗廬と山鳴弘斎の三男・山鳴清三郎(または坂田警軒の兄・坂田待園) が大坂で学んだ湿板写真を披露。初めて写真を見た。 明治 4 年、兄・山本讃太郎(別名は楫江順。陸軍参謀本部陸地測量部測量士)を頼って上京。 明治 10 年(7 年とも)、叔父の山本梅園の師(林洞海)の養子・林董の書生となり写真術を学ぶ。 また、横山松三郎にも学び、横山松三郎門下の中島待乳の門に入った。 なお、叔父の山本梅園は、同郷の芳井町出身の蘭方医、一橋家の御典医。 明治 15 年、芝日影町一丁目 1 番地で開業。 明治 22 年、明治天皇の鳳輦を撮影。 明治 27 年頃、鹿島清兵衛の玄鹿館主任技師。 明治 29 年、玄鹿館が倒産。 明治 30 年、当時、清国駐剳全権公使であった林董に誘われ北京へ移る。 北京霞公府街を拠点に城内外を撮影。

明治33年9月14日の新聞記事に、山本讃七郎の語った記事がある。内容は北京で西太后とともに籠城し九死に一生を得たこと。助手の「渡辺友吉」「松本幸八」を連れてふたたび清へ渡り、写真館を開いたたことなどが語られている。

明治 33 年、帰国し、芝日影町一丁目 1 番地の写真館を従兄弟の横田雄寿に譲る。 ふたたび北京に移動。 しかし義和団の乱が起こり休業。 居留民義勇隊に属して、一等軍医・中川十全の助手を務めた。 明治 34 年、勲八等瑞宝章。 明治 35 年、従軍記章を受章。 明治 34 年、中国に戻り、霞公府街に山本照像(相)館を開業。 明治 37 年、頤和園に招かれ、西太后を撮影。 明治 39 年、関野貞の古建築・遺跡調査に参加。 明治 44 年、山本照像(相)館を甥・山本素卜に任せて帰国。 明治 44 年、麻布区我善坊町 28 番地(港区麻布台一丁目 1 番)に移住。 明治 45 年、林董の別荘があった神奈川県葉山町堀内に移住。 のち山本照像館は王府井大街 26 号に移転し、長男・山本明が継いだ。 昭和 4 年頃、両親のいる大田区田園調布に移住。 昭和 5 年、山本明は山本照像館を岩田秀則に譲る。 昭和 7 年頃、赤坂区青山南町二丁目 10 番地に山本写真館を構え、山本明の一家と同居。 昭和 18 年、死去。墓地は世田谷区烏山町・幻照寺。

生年/出身: 1855 岡山(後月郡梶江村)

開業年: 1882

開業地、主要拠点: 東亰(芝日陰町壹丁目)、海外(中国・霞公府街)

師匠: 中島 待乳 横山 松三郎 鹿島 清兵衛 林 董

弟子: 山本 素卜 中山 張次郎 横田 雄寿 松本 幸八 渡邊 知吉