【古写真関連資料】時計商と、幕末明治の写真師たち

上野俊之丞肖像写真師
上野俊之丞

日本での工業としての時計生産は、明治時代中期(1880年代)以降に東京、大阪、名古屋周辺で掛時計、置時計の製造が始まったのが嚆矢であるが、懐中時計・腕時計等の精密時計の大量生産は20世紀に入ってから始まった。1927年にはアメリカにおいてクォーツ時計が発明されていたが、1960年代には急速に改良が進んで実用化されるようになり、1969年にはアナログ式クォーツ腕時計が日本において初めて商品化され、さらに1970年代以降のデジタル化へのシフトにより、スイスの時計産業は衰退し、日本へとその主軸を移していった。20世紀末には生産地がさらにアジア諸国にシフトしていった。この頃には、クロノメーター時代の最高精度の何倍もの精度の時計が廉価で買えるようになり、デジタル時計なども実用的にはこれ以上進歩のしようがなくなった。ただし大量生産された普及品としてのクオーツ式時計に対し、スイス・ドイツ・日本の高級精密時計産業は高級感や所有感を希求することでまた盛り返した。『実用的な道具としての時計』と『高級な嗜好品としての時計』に二極化していったといえる。その後21世紀になると、携帯電話等に付属する時計を利用するユーザが多くなったため、前者の『実用的な道具としての時計』産業は衰退しつつある。後者の高級精密時計産業は、特にスイスの時計生産業者やファッションコングロマリットによりグループ化され、統合されて発展しつつある。ファッションブランドとの統合による資本の安定、他の産業(自動車・光学・精密・電子機器など)との複合経営による資本の安定や技術の応用・還元などにより、機械式時計も技術的にもさらなる発展をしつつある。その他パソコンの画面上ではタスクバーで時間が標準表示される他、主にガジェット、フリーソフトとして各種アナログ・デジタル時計が多数公開されている。

◆写真師・高橋 慎二郎
本名は中原慎二郎。 高橋写真フイルム研究所の創業者祖父の高橋栄蔵は、外国製品を商う唐物商と時計商を営んでおり、亀井算を著した人物。 明治 11 年、高橋栄蔵が、亀井算の著書を印刷するために東京から印刷機を取り寄せた。 この印刷機が、後の株式会社高橋活版所へ継続することになる。 父は栄蔵の長男・高橋賢三郎(後に中原姓を継ぎ中原賢三郎)。 明治 12 年、高橋賢三郎の二男として新潟に生まれた。 明治 23 年、印刷工場内で、煙花の火薬を爆発させる事件を起こす。 その後、安全な遊びとして、写真機を与えられた。 明治 25 年、三条町の呉服商・土勇の家に預けられ、見習店員となる。 当時、子供を他家に預けて修行させることは、新潟の商家の風習でもあった。 この間、三条町にあった水野文平(水野写真館)と親しくなり、写真技術を学んだ。 写真機械を自作した。 明治 28 年、祖父・高橋栄蔵の門人・富山文蔵の経営する新潟市内の富山時計店に移った。 機械の知識を得た。 また、和田写真館金井写真館朝倉写真館など写真館に出入りして写真術を磨いた。 明治 32 年、本郷西方町に居住していた父・中原賢三郎を訪ね上京。 父の紹介で、お茶の水の玉翠館(気賀秋敏)に入館し、写真を学んだ。 明治 35 年頃、下関の関門写真館(内田慶二郎)で修整技師を務めたが、関門写真館が全焼し、内田慶二 郎も他界。 明治 36 年、関門写真館の技師から上野彦馬を紹介され、上野彦馬門下の竹下写真館(竹下佳治)に入館。 明治 38 年、ロシアに渡り、ウラジオストクの森写真館(森竹十郎。ペキンスカヤ街)に勤務。 明治 39 年、ロシア人着彩写真家・サヴリエスに師事。 明治 41 年、帰郷し、下関経由で、本郷に下宿。 明治 42 年、日本橋楽研堀の玉水館(上野英雄が経営。気賀秋敏の玉翠館の支店)の主任技師となる。 明治 42 年、第一回大丸写真展覧会で優等に入選。 明治 43 年、高橋写真乾板研究所を設立。 明治 44 年、玉水館の主任技師として働きながら、乾板の国産化を目指しすため、東京高等工業学校(の ち東京工業大学)にあった写真化学(夜学)に通い、結城林蔵(のち東京写真専門学校(現在の東京工芸 大学)の校長)に学んだ。 大正元年頃、上野英雄のすすめで結婚。日本橋区横山町に住んでいたという。 大正 2 年、自作の乾板「サクセス」を製造・販売。 大正 8 年、菊池恵次郎の出資を受け東洋乾板を設立。 大正 10 年、TS 乾板を売り出した。(TS は自身のイニシャル) 退任後も高橋フィルム化学工業を経営。 昭和 29 年、日本写真協会賞。日本写真協会参与。

◆写真師・ 大橋 申廣
大橋申広の表記もある。明治26年頃、アフリカ・セ—シェル島に移住。のち現地で写真師となり、写真業と時計修繕業を行った。大正14年、死去。

◆写真師・ 今井 貞吉
「いまい・ていきち」と読むこともある。父は土佐藩下士・今井米次。 号は風山、風山軒。医師でもある。土佐高知藩町方下横目として仕える。 安政 6 年、藩命により長崎で貿易について調査を行う。 この際、フランス語の写真書と望遠鏡を入手。上野彦馬に写真術を教わった。 その後、薩摩で洋式工業を視察。帰国後免職となり、大阪堺で医者を業とする傍ら、古銭の標本を集めた。 早崎鉄意から写真機を購入し、撮影法を学んでいる。 慶応 3 年、堺事件(堺町内で起きた、土佐藩士によるフランス水兵殺傷事件)の際に折檻に従事。 のち大阪に岩崎弥太郎と土佐商会を発足する。 明治 5 年、土佐に戻り共立社を設立。 明治 14 年から 16 年まで、高知県議。 以後は古銭収集と研究生活に入り、10 年以上かけて「古銭大全」30 巻を完成させた。 明治 36 年、死去。開成館大坂表貨殖局差配役、会計司権少浪華商会係、共立社々長、育児院々長、今井時計店々主などの肩書もある。今井榮は息子。

◆写真師・ 中島 待乳
本名は中島精一。幼名は中島助次郎。 中島清兵衛の二男として生まれる。 文久年間、オランダ船が漂着した際、乗組員の懐中時計に貼られた写真を見て、興味を持った。 元治元年、父により丁稚奉公のため江戸に連れ出されたが、拒んで帰郷した。 慶応 3 年、南画家・中林湘雲が銚子に来訪した際入門し、江戸に出た。 日本橋区本町穂積屋・清水卯三郎から漢訳の写真書を入手。 福地源一郎にレンズ製造法を教わり、漢訳の写真書を翻訳してもらう。 また京橋区竹川町の眼鏡商・玉屋松五郎にレンズ研磨法(構成法)を学んだ。 明治元年、吉原で試験撮影を開始。 明治元年、火事により機材が全焼。 明治元年、横山松三郎に師事し、修正術・採光法を学んだ。 なお、待乳の号は横山松三郎が浅草名勝待乳山に因んで付けたとされる。 明治 5 年、陸軍省や山城屋に勤めた後、玉屋に住み込み、レンズ・写真機の自作に成功。 明治 6 年、玉屋松五郎が死去。 明治 7 年、浅草区材木町に写真館待乳園を開業。 明治 9 年、横浜から浅草に移っていた下岡蓮杖のもとを訪れている。下岡蓮杖は横浜で使っていた写真機などを中島待乳に与えたという。 明治 10 年頃、幻灯機の製造を試み、手品師・帰天斎正一等から注文を受けた。 明治 10 年、第一内国勧業博覧会で褒賞受賞。 明治 13 年、秋尾園と結婚。 明治 13 年、教育博物館長・手島精一が師範学校等の教材として幻灯の導入を推進。 その際、鶴淵初蔵と共に製造を請け負う。 明治 14 年、第二回内国勧業博覧会では人像カーボン印画を出品し有効賞。 明治 19 年、幻灯機の改良を重ね、ライムライトを用いた「水酸瓦斯機械」を発明。 また、画家の妻・松尾園とともに種板の制作に力を入れた。明治 21 年、甥の宮内幸太郎が上京して中島待乳に写真を学んでいる。明治 23 年、第三回内国勧業博覧会では写真及幻燈器、幻燈映画等一式を出品し有効賞。 明治 27 年、日本橋区呉服町一丁目 1 番地に移転。 明治 40 年、第六回内国勧業博覧会審査員。 明治 44 年、全国写真大会発起人総代。東京写真師組合顧問役。 晩年は牛込区弁天町に住んだ。 昭和 13 年死去。多磨霊園に葬られた。 甥・秋尾勲(秋尾新六の次男、のち中島待乳の養子)は、陸軍工兵大尉として航空写真に従事していた。

◆写真師・ 工藤 孝
号は工藤築山。祖父はシーボルトの門弟だったという。父も医者の家に生まれている。明治 18 年、久留米中学校を卒業。済生学舎(現・日本医科大学)を病気のため中退。 明治 18 年、一家で東京に移り、医院を開業。 明治 19 年、中村董の門人となる。 明治 20 年、秋田の時計商・船尾隆英(米沢藩士か?)の出資により牛込神楽坂に船尾写真館を開業。 のち二見朝隈江木保夫江木松四郎)らの技師を務める。 赤坂見附下の店を閉鎖。 明治 25 年、神田錦町に開業。 明治 27 年、大日本写真品評会評議員。 明治 40 年、第三回東京勧業博覧会では審査が不平等として自分の作品を打ち壊したという。 明治 42 年、日英博覧会に出品。 昭和 6 年、工藤写真研究所を設立し、後進の指導に当たる。書籍に「写真ポーズ百態集」。 祖父については確定できないが、シーボルト門下に工藤姓が 1 名(工藤謙同)存在する。 工藤謙同は、杵築蕃の蘭方外科医・工藤蓬斎の次男。豊後出身。 文政 4 年、長崎のシーボルトによりオランダ医学を学び、のち江戸の宇田川玄真に入門。 帰郷の途中、筑後久留米で病人を救い、その地で開業している。

◆写真師・ 小野 吉郎
不詳。「羽前新庄町、時計師、貴金属券術品調製」と記載された台紙がある。

◆写真師・ 樫村 保
明治 10 年頃、熊本に出て、行商から次第に財を成す。 明治 22 年、熊本市洗馬に写真材料と時計を商う店を開業。 明治 24 年頃、海外に進出。天津、台北、大連などに支店を設ける。 後、天津支店を本店として柏村洋行と店名を改めた。 明治 44 年、死去。

◆写真師・ 船尾 隆英
明治 20 年、工藤孝は、秋田の時計商・船尾隆英(米沢藩士か?)の出資により牛込神楽坂に船尾写真館を開業。

◆写真師・ 瀬古安太郎
瀬古弥左衛門の次男として生まれる。 瀬古弥左衛門の長男・瀬古弥平は飛騨高山ではじめ時計店を開いている。明治 5 年頃、岐阜にて時計店を営んでいたが、写真業を目指し、ドイツ・ケルンへ出国。 現地でレンズを入手して帰国。写真機材やガラス原版の枠などを宮大工に誂えたという。その後、小島柳蛙に師事して写真術を学んだ。 明治 8 年、岐阜市今泉に開業。のち兄(長男)・瀬古弥平も飛騨高山で写真館を始め、三男は福井に、四男は愛知県犬山に開業した。明治 24 年、濃尾大震災が発生。弟子を連れて岐阜・高富・大垣・羽島・笠松に至る一円を記録に収めた。 根尾谷断層写真は日本地震学会による重要資料の指定を受けており、機材も含めて岐阜県博物館と岐阜県 歴史資料館に収められている。 明治 25 年、宮内庁からの御用達で、岐阜県内全学校の明治天皇御真影の複製を収めている。 大正 10 年、川端康成が、伊藤初代(当時岐阜在住)と三明永無とともに瀬古写真館を訪れており、その ことが私小説「南方の火」に書かれている。 大正 12 年、死去。 大正 12 年、瀬古真二が二代・瀬古安太郎を襲名。

◆写真師・ 瀬古弥平
瀬古弥左衛門の長男。明治5年以前、飛騨高山で時計店を開業していた。瀬古弥左衛門の次男は、明治8年に岐阜今泉で写真師となった瀬古安太郎。のち長男の瀬古弥平も飛騨高山で写真館を始め、三男は福井に、四男は愛知県犬山に開業。

◆写真師・ 上野俊之丞
祖父は長崎漢画派の絵師・山本若麟。父は山本若麟の息子で門人の上野若瑞 。上野若瑞の父は山本若麟(長崎漢画派)。山本若麟の父は上野若元(長崎漢画派)。 上野家の祖は上野英智といい、佐賀鍋島家に仕えていた。文禄・慶長の役に鍋島直茂に従軍し、戦功があったが、陣没したという。名は上野常足。画人としての号は上野若龍。文政 5 年、長崎の御用時計師の家柄である幸野家を継いだ。天保 10 年、上野姓に戻った。 御用時計師として幸野俊之丞とも名乗っている。 上野家は、代々長崎の商家で時計や薬品の製造・販売を業としていた。家紋は桔梗の二引。武雄領主鍋島茂義の、貿易港長崎での買い物帳「長崎方控」にも名前が登場する。広瀬淡窓(私塾・咸宜園)に漢学、蘭学を学び科学者として天文や、チリ、化学を研究し、鋳金や鍛金、火薬などを製造。 時計師、硝医師の製造などを業として長崎奉行の用命を受ける。 天保年間、荘園の製造を計画し、薩摩藩からの援助で長崎・中島川のほとりに精錬所を設立。オランダ商館にも出入りを許される。 天保 14 年、長崎に届いたダゲレオタイプ写真機を目にする。 この時に記録したとされる写真機の寸法を付したスケッチが現存する。 嘉永元年、ダゲレオタイプを入手。これが日本最初の写真機伝来とされる。 島津斉彬の手に渡り、薩摩藩における写真術の研究を進展させることになった。 嘉永 4 年、死去。 上野彦馬上野幸馬は息子。

◆写真師・ 上野彦馬
父は上野俊之丞、弟は上野幸馬。上野俊之丞の父は上野若瑞(長崎漢画派)。上野若瑞の父は山本若麟(長崎漢画派)。山本若麟の父は上野若元(長崎漢画派)。号は季渓。 嘉永 4 年、父・上野俊之丞が他界し、幼くして蘭学、化学を学び、染色、時計、砲術、写真術を研究。 大分・日田の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった広瀬淡窓の塾「咸宜園」(文化 2 年に創立された全寮 制の私塾)に入門し 3 年間学び、長崎に戻る。 その後、蘭通詞・名村八右衛門からオランダ語を習う。 安政 5 年、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教師とする医学伝習所内に新設された 舎密試験所で舎密学を学び、湿板写真術に関心を持つ。 津藩士・堀江鍬次郎らと共に蘭書を頼りに写真技術を習得し、感光剤の化学薬品の自製に成功するなど、 化学的に写真術の研究を深める。 安政 6 年、フランスの写真家ロシエにより写真術を習得。 安政 6 年、今井貞吉が藩命により長崎で貿易について調査を行った際に上野彦馬に写真術を教わっている。 万延元年頃、高山一之は江戸に出て上野彦馬に写真を学んだといわれる。 文久 2 年、故郷の長崎に戻り中島河畔で「上野撮影局」を開業した。 文久 2 年、中島寛道が化学と写真術を学んでいる。 文久 2 年(3 年とも)、守田来蔵が門下として写真術の教えを受けている。元治元年、富重利平が写真術の教えを受けている。 慶応元年、溝渕広之丞(土佐藩士)らと長崎遊学を命じられ、化学を学ぶ。 慶応元年、長崎で中浜万次郎らが上野彦馬の撮影所に出入りし、井上俊三に写真修業をさせている。 慶応 2 年、井上俊三が藩費により上野彦馬撮影局の機材を三百両で買い上げる。 慶応 3 年、坂本龍馬の立像を上野彦馬スタジオで撮影されており、坂本龍馬は井上俊三、後藤象二郎は上 野彦馬の撮影とされる。ほか、高杉晋作などの志士や明治の高官、名士の肖像写真を多く撮影。 幕末期に松林一十が長崎の佐賀藩屋敷に出役中、上野彦馬から写真術の教えを受けている。 明治 5 年、植松柳谷に「安吉秘伝」を伝えている。 明治 7 年、金星の太陽面通過の観測写真を撮影し、これが日本初の天体写真となった。 明治 10 年、西南戦争の戦跡を撮影し、これが日本初の戦跡写真となった。 同年、第 1 回内国勧業博覧会で鳳紋褒賞を受賞。 明治 23 年頃、磯長海洲が上野彦馬の写真館(上海支店)で 3 年間写真撮影に従事している。ウラジオストク、上海、香港など海外に支店を持ち、後進の指導にもあたった。 上野彦馬の妹(コノ)の婿養子、上野才蔵(大分日出町生まれ、本名は泉)は、香港支店長になっている。明治 37 年、長崎で死去。上野彦馬の長男(上野陽一郎)、次男(上野秀次郎)は、上野彦馬の没後に千馬町に兄弟で開業したが、間もなくして閉鎖した。

◆写真師・ 上野幸馬
父は上野俊之丞、兄は上野彦馬。上野俊之丞の父は上野若瑞(長崎漢画派)。上野若瑞の父は山本若麟(長崎漢画派)。山本若麟の父は上野若元(長崎漢画派)。上野左次馬、上野京馬と記載された資料も存在する。 原書の独学により新コロジオン法を会得。調剤の技術が高く、多くの同業者が技法を聞きに来た。 慶応元年、内田九一は上野幸馬を連れて長崎から舟で、写真撮影しながら旅費を稼ぎ、まず神戸で写真撮影の活動を始めた。このとき、市田左右太(初代)葛城思風森川新七田村景美等に写真術を教えた という。 明治初め、神戸の福原遊郭に店を開く。明治初年、東京の築地本願寺正門前(現在の築地本願寺正門の位置とは異なる)で写真館を開業。 明治 4 年、片山精三が写真術の教えを受けている。 明治 5 年、「全国写真師見立番付」で「築地 上野京馬」として記載されている。 明治 7 年、大阪神戸間の鉄道開設のため、遊郭が湊川付近に移転したため、神戸の店舗を閉店。 その帰り途中、各地の同業者に技術指導をおこない、歓迎されたという。 明治 9 年、東京・築地に写真場「幸謙社」を開業。写真業の傍ら、宮内省の御時計技師も務めた。 官僚であった前島密の写真なども起こっている。 息子に産業能率大学創設者・上野陽一。 明治 29 年、死去。

◆写真師・ 米林 八十八
隠居後の号一光は。文化十年金沢にて生まれる。明治11年に石川県に提出した身上書が残っており、その時点での住居は「石川縣下第拾大区小八区南町四拾五番邸」。文政10年、紙細工師・北隅半蔵に入門。文政12年、京都五条通橋下の奇物師・中村屋弁吉(写真師・大野弁吉)に入門。番頭を務め、共に移住していた。文政13年、大野弁吉とともに帰郷し、石川郡大野村に移る。天保6年まで大野弁吉のもとで学んだ。天保6年、4月江戸へ出て、外神田金助町の従弟・米林峯吉のもとに居住。神田の大道具仕掛師・長谷川勘兵衛に入門。なお、長谷川勘兵衛は歌舞伎大道具師の家系で日本橋の宮大工であった1世は、江戸の歌舞伎各座の大道具を専門に明暦の頃から活躍しており、米林八十八の師匠は14代、または15代と思われ、その頃の長谷川は舞台機構の改良,仕掛物の工夫に手腕を発揮し、戸板返し、ちょうちん抜け、宙乗りなどを生み出している。天保6年、10月頃より米林峯吉のもとで人形細工並根付彫工等を行っていたが、まもなくして金沢上堤町に帰郷し奇物師として活動をする。嘉永2年、能登国七尾府中町の旅籠商船蔵屋與三右工門のもとで時計修復業を行っている。のち、能登国宇出津尾山屋源右工門のもとで時計修復業を行っている。 のち、能登国宗玄引山で人形等修復業を行っている。 のち金沢に戻り、文久2年から3年頃、雷管製造販売などを行う。藩御用器械師となる。 改めて大野弁吉に入門して写真術を学んで小池兵治に伝授した。明治初期、硝子店を開く。明治4年、長男が「米林八十八」を名乗り家督を継いでいる。明治 9 年、仲町に写真館を開業。明治 22 年、死去。大野弁吉の号「一束」、米林八十八の号「一光」については、フリーメーソンの影響があったという意見もある。