
◆写真師・百々 主計
本名は百々英太。丸亀藩士。幕末期、長崎でオランダ人から撮影技術を習得。その後帰藩。文久元年10月11日、土佐藩・坂本龍馬は剣術詮議のため高知城下、讃州丸亀の直清流剣術家・矢野市之丞を訪問し、その際に撮影された写真が百々主計の撮影だという。明治初期に写真館「百々香影」を開業。
◆ 写真師・ 井上俊三
父は土佐藩の医者。 はじめ高知城下で医師をしていた。 慶応元年、溝渕広之丞(土佐藩士)らと長崎遊学を命じられ、化学を学ぶ。長崎で中浜万次郎らが上野彦馬の撮影所に出入りし、井上俊三に写真修業をさせる。 慶応 2 年、藩費により上野彦馬撮影局の機材を三百両で買い上げる。 慶応 3 年、坂本龍馬・後藤象二郎らと夕顔丸で長崎から大阪に向かう。このとき、坂本龍馬の立像を上野彦馬スタジオで撮影しており、坂本龍馬は井上俊三、後藤象二郎は上野彦馬による撮影とされている。 慶応 3 年、大阪で写真館を開業。 明治に入り帰郷し、土佐初の写真館と西洋雑貨店を開く。 明治 4 年頃、筧政叉が写真術を学んでいる。 明治 40 年、死去。
◆写真師・ 上野彦馬
父は上野俊之丞、弟は上野幸馬。上野俊之丞の父は上野若瑞(長崎漢画派)。上野若瑞の父は山本若麟(長崎漢画派)。山本若麟の父は上野若元(長崎漢画派)。号は季渓。 嘉永 4 年、父・上野俊之丞が他界し、幼くして蘭学、化学を学び、染色、時計、砲術、写真術を研究。 大分・日田の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった広瀬淡窓の塾「咸宜園」(文化 2 年に創立された全寮 制の私塾)に入門し 3 年間学び、長崎に戻る。 その後、蘭通詞・名村八右衛門からオランダ語を習う。 安政 5 年、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教師とする医学伝習所内に新設された 舎密試験所で舎密学を学び、湿板写真術に関心を持つ。 津藩士・堀江鍬次郎らと共に蘭書を頼りに写真技術を習得し、感光剤の化学薬品の自製に成功するなど、 化学的に写真術の研究を深める。 安政 6 年、フランスの写真家ロシエにより写真術を習得。 安政 6 年、今井貞吉が藩命により長崎で貿易について調査を行った際に上野彦馬に写真術を教わっている。 万延元年頃、高山一之は江戸に出て上野彦馬に写真を学んだといわれる。 文久 2 年、故郷の長崎に戻り中島河畔で「上野撮影局」を開業した。 文久 2 年、中島寛道が化学と写真術を学んでいる。 文久 2 年(3 年とも)、守田来蔵が門下として写真術の教えを受けている。元治元年、富重利平が写真術の教えを受けている。 慶応元年、溝渕広之丞(土佐藩士)らと長崎遊学を命じられ、化学を学ぶ。 慶応元年、長崎で中浜万次郎らが上野彦馬の撮影所に出入りし、井上俊三に写真修業をさせている。 慶応 2 年、井上俊三が藩費により上野彦馬撮影局の機材を三百両で買い上げる。 慶応 3 年、坂本龍馬の立像を上野彦馬スタジオで撮影されており、坂本龍馬は井上俊三、後藤象二郎は上 野彦馬の撮影とされる。ほか、高杉晋作などの志士や明治の高官、名士の肖像写真を多く撮影。 幕末期に松林一十が長崎の佐賀藩屋敷に出役中、上野彦馬から写真術の教えを受けている。 明治 5 年、植松柳谷に「安吉秘伝」を伝えている。 明治 7 年、金星の太陽面通過の観測写真を撮影し、これが日本初の天体写真となった。 明治 10 年、西南戦争の戦跡を撮影し、これが日本初の戦跡写真となった。 同年、第 1 回内国勧業博覧会で鳳紋褒賞を受賞。 明治 23 年頃、磯長海洲が上野彦馬の写真館(上海支店)で 3 年間写真撮影に従事している。ウラジオストク、上海、香港など海外に支店を持ち、後進の指導にもあたった。 上野彦馬の妹(コノ)の婿養子、上野才蔵(大分日出町生まれ、本名は泉)は、香港支店長になっている。明治 37 年、長崎で死去。上野彦馬の長男(上野陽一郎)、次男(上野秀次郎)は、上野彦馬の没後に千馬町に兄弟で開業したが、間もなくして閉鎖した。
◆淡海 槐堂
別名は板倉槐堂、板倉筑前介。父は医師で儒者・下坂篁斎。下坂家は、中世に浅井氏の家臣として活躍した豪族。 実弟は勤王の詩人・江馬天江。本名は緝、別称は重涂・緝・敬天・頑山。のち「おひや薬」という薬で著名であった京都の薬種商・武田家に養子に入る。 尊王攘夷派の志士として倒幕運動に奔走し、京都に出入りする志士たちから慕われたという。坂本龍馬、中岡慎太郎が近江屋で暗殺された部屋に飾られていた掛軸「梅椿図」は、槐堂が龍馬の誕生祝い に描いたもので、血痕が残る掛軸は国指定重要文化財に指定された。安政 2 年、醍醐家に仕え板倉姓を賜う。従六位、筑前介に任じられた。長崎から入る西洋文献をよく取り入れており、暗箱写真機を取り寄せて写真術の実験なども行った。安政 6 年、撮影した鳩居堂七代目当主熊谷直孝の写真は、現存する国内の写真では 2 番目に古いものとさ れ、京都市有形文化財に指定。なお、鳩居堂七代目当主熊谷直孝と同姓同名で、コロジオン湿板の解説書「写真新法」を編纂した熊谷直孝 がいるが別人。
慶応 4 年、大津裁判所参謀となり醍醐家を退身。板倉姓を返上し淡海姓として、「淡海筑前介」を称した。明治 3 年、位記を返上して、槐堂を号した。晩年は志士の遺骸を洛北に改葬し、霊山招魂場を設けた。明治 12 年、死去。
◆坂本 龍馬
江戸時代末期の志士、土佐藩郷士。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬(竜馬)。 他に才谷 梅太郎などの変名がある。土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成した。薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与した。大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で中岡慎太郎、山田藤吉らとともに暗殺された。暗殺者は諸説あるが、京都見廻組という説が有力である。1891年(明治24年)4月8日、正四位を追贈される。龍馬自身は紀姓で紀貫之の子孫と称したという。墓石にも「坂本龍馬 紀直柔」と名が彫られている。 坂本家が主君に差し出した『先祖書指出控』には、「先祖、坂本太郎五郎、生国山城国、郡村未だ詳らかならず、仕声弓戦之難を避け、長岡郡才谷村に来住す。但し年歴、妻之里、且つ病死之年月等未詳」とある。 天正16年(1588年)の才谷村の検地で村の三番目の百姓として登録されているにすぎず、三代目太郎左衛門までは公認の名字を持たない百姓身分と考えられる。二代目彦三郎、三代目太郎左衛門まで才谷村で農業を営んだ。四代目守之、五代目正禎の頃に豪農としての頭角を現し才谷村の字の一つである「大浜」を家名として名乗り始める。寛文6年(1666年)、三代目太郎左衛門の次男・八兵衛は高知城下にて質屋を開業し(屋号は才谷屋)、酒屋、呉服などを扱う豪商となる。享保15年(1730年)ごろ本町筋の年寄役となり、藩主に拝謁を許されるにいたった。明和7年(1770年)、六代目直益は郷士の株を買い長男・直海を郷士坂本家の初代とし分家させ、名字帯刀、すなわち公認の名字を名乗り身分表象として二本差す身分にたどりついた。次男・直清には商家才谷屋をつがせている。郷士坂本家三代目・直足は白札郷士山本信固(覚右衛門)の次男として生まれ坂本家へ養子として入った。直足の次男が直柔(坂本龍馬)である。妻はお龍(楢崎龍)、また、千葉さな子は婚約者だったと言われる。龍馬には子がいなかったため、甥(姉・千鶴の長男)の直が家督を継いだ。郷士坂本家は五代目当主の直寛(姉・千鶴の次男で龍馬の甥)のときの明治30年(1897年)に一族を挙げて北海道に移住した(土佐訣別)ため、現在は高知には龍馬はもとより郷士坂本家の人々はいない。直寛は、武市半平太の後に武市家を継承した武市安哉らとともに、キリスト教精神に基づく自由民権運動を行っており、この考えによる理想のまちづくりを夢見て、新天地である北海道に移住した。北海道開拓は生前の龍馬の夢でもあった。小説では、坂本家は明智光秀の娘婿・明智秀満の末裔とし、坂本姓の由来は、本能寺の変以前、明智氏所領であった坂本(現・滋賀県大津市坂本)に由来するとの話もあるが、坂本の地名は全国に多数ある。このようなことからも、後世の創作だろうとする声も強い。坂本家の家紋は「組み合わせ桝に桔梗」。2010年1月15日横須賀市の信楽寺にて、龍馬死後143年ぶりにお龍との合同慰霊祭が催された。