
◆熊谷 直孝
幼名は 熊谷次郎橘。父は幕臣で奥医師を勤めた熊谷直房。長男として生まれる。医学館で医学を学び、横浜仏語伝習所に学ぶ。 明治 4 年、横須賀造船所に入る。明治 5 年、フランスに留学。明治 7 年、帰国のち造船所編纂掛などを経て、海軍造船練習所教授を務める。明治 11 年、写真術の研究も行い、コロジオン湿板の解説書「写真新法」を編纂。昭和17年、死去。同姓同名の京都の香商鳩居堂7代目当主とは別人。なお、淡海 槐堂が安政 6 年に撮影した鳩居堂七代目当主熊谷直孝の写真は、現存する国内の写真では 2 番目に古いものとさ れ、京都市有形文化財に指定されている。
◆屋須 弘平
一関藩の蘭学者・屋須尚安の長男として生まれた。父は長崎で学んだという。父から蘭学を学び、青年期に医学、天文学、漢学、スペイン語、フランス語を身に付ける。文久3年、上京して漢学と医学を修めた。明治元年頃、勉学を中断して故郷(岩手県藤沢町)へ戻ろうとしたが、途中の二本松藩領内で藤沢の郷士たちと遭遇し、ともに戊辰戦争に奥羽越列藩同盟の軍医として参戦した。 やがて戦争が終わり、故郷へ戻り、江戸遊学中に亡くなった父親の後を継いで開業医となる。明治4年頃、ふたたび故郷を離れ、横浜に移住。横浜仏語伝習所でフランス人・エームリエから医学、天文学、フランス語を学んだという。明治6年、海外渡航免許を申請、許可されている。明治7年、この頃、日本が天文観測の適地(金星の太陽面通過)とされ、先進諸国から多数の観測隊が来日していた。その中のフランシスコ・ディアス・コバルヴィアスを隊長とする5名のメキシコ派遣隊に、通訳として雇われる。明治9年、フランシスコ・ディアス・コバルヴィアスにメキシコへの渡航を懇願し、同行を許可され、現地に入国した。メキシコ・シティのフランシスコ・ディアス・コバルヴィアスの邸宅から高等予備学校に通い、一般教養、絵画を学んだ。この頃、フランシスコ・ディアス・コバルヴィアスに伴って、メキシコのテハダ大統領に和装で謁見した。 のち、フランシスコ・ディアス・コバルヴィアスがグァテマラ公使に任命されると、伴って グァテマラに移住した。写真に興味を持ち、公使館の前にあった写真館(ドイツ人、エミリオ・エルブルヘル)で働きながら写真術を学んだ。そのままグアテマラに移住し写真技術を身に付けた。明治13年頃、写真館「フォトグラフィア・ハポネス」を開業。当時のグァテマラ大統領フスト・ルフィーノ・バリオスなども撮影した。明治16年、キリスト教の洗礼を受け、ファン・ホセ・デ・ヘスス・ヤスと名乗る。明治22年、拡大していた写真館だったが、すべてを売却。帰国して横浜港に入港し、故郷の母を連れ上京。東京・築地で写真館を開いた。しかし明治22年、高橋是清が南米ペルーのアンデス地方での銀山開発計画事業を推進するための日秘鉱業株式会社を設立しており、高橋是清に誘われスペイン語通訳としてペルーに渡る。しかし、3か月で事業は停止した。ペルーからの帰路、グアテマラで1人下船し、再びグアテマラで写真館を開いた。明治24年、下宿していた家の娘(マリア・アングロ・ノリエガ)と結婚。明治28年、グアテマラの古都アンティグアに移住し移転。大正6年、アンティグアグアテマラで死去。昭和51年、アンティグア市で大地震が発生した際に、貴重な写真原板数百点が発見された。
◆横濱佛蘭西語傳習所
江戸時代末期にかつて存在した日本の語学学校である。通称横浜仏語伝習所。江戸幕府が横浜に開校した。幕府は、フランス軍軍事顧問団の指導による幕府陸軍の強化を目指した。それに先立ち、フランス語を理解できる士官候補生を養成するために、元治2年3月6日(1865年4月1日)、開成所とは別に横浜仏語伝習所が設立された。場所は武蔵国久良岐郡横浜町弁天町(現在の神奈川県横浜市中区本町6丁目)、弁天池の北隣であった。栗本鋤雲、小栗忠順が幕府から設立に関わり、設立後は、所長に外国奉行川勝広道が就任、フランス側からの指名で塩田三郎が補佐した。フランス側からは、全権公使のレオン・ロッシュが責任者として立ち、その秘書で通訳のメルメ・カションが事実上の校長であり、カリキュラム編成と講義を受け持った。慶応2年(1866年)2月頃(慶応2年初頭)からは、シャルル・ビュランら公使館から人員が借り出された。カリキュラムは、フランス語だけではなく地理学・歴史学・数学・幾何学・英語・馬術で、半年を1学期とし、午前は8時から正午までの4時間と、午後は16時から18時までの2時間を授業時間とし、日曜日・祝日は休業、水曜日は午前のみの半ドンであった。第1回「得業式」は慶応2年10月(1866年11月)に行なわれた。同年11月18日(12月24日)、伝習生は旗本を対象に募集したが、翌慶応3年1月3日(1867年2月7日)には藩士にも門戸を開いた。幕府が倒れ、幕府と運命を共にした形でロッシュが本国に召喚され、新公使マクシム・ウトレー(フランス語版)が着任するに及んで、横浜仏語伝習所は一旦は自然廃校となった。しかし、明治2年(1869年)に明治新政府はこの学校を接収し、再興することを決定した。そして、川勝広道を学長に再任し、諸藩の志願者35名に入学を許し、ビュランも引き続き教官を務めた。