
◆中沢 岩太
宮内幸太郎が写真化学を学んでいる。中澤岩太の表記もある。父・福井藩士中沢甚兵衛(中沢七平)の長男。幼名は 中沢東重郎。文久4年、 中沢岩太と改名。幼少時に福井藩士・田川氏の私塾で漢書、習字を学ぶ。のち塾を預かった芳賀真咲(国文学者、帝国学士院会員、芳賀矢一の父)に就いて学んだ。芳賀真咲は、越前福井の国学者で、幼名は三作・真之助、号は孔舎農家といい、橘曙覧・平田鉄胤門下であった。明治3年、父が隠居し家督を継いだ。この頃、福井藩からドイツ語修業生を命じられ学修している。明治4年、福井藩の藩校明新館(明道館)でグリフィスが物理・化学を教えていた際に、聴講の資格がないのにもかかわらず教室に入り、質問に対し聴講生以上の答えを述べたため黙認されるようになった。明治4年、グリフィスに同行して上京。明治5年、東京で、大学南校に入学。
明治9年、東京開成学校予科を終了し、化学科に入学。明治9年、地質学修業のためナウマンにしたがって浅間山、立山、磐梯山等に登った。明治12年、旧東京大学理学部化学科を首席で卒業した。明治13年、東京化学会会長を務めた。明治14年、アトキンソンのイギリス帰国に代わり、ドイツ人のワグネルが教鞭を執ることになった際、岩太は東大の助教に任命され、陶器、玻璃の研究に従事。明治16年、文部省官費留学生としてドイツに留学。ベルリン大学に入学。明治20年、帰国。明治20年、松井直吉の後任として帝国大学工科大学教授に就任。明治23年、御料局佐渡支部付属王子硫酸製造所の事業嘱託。明治25年、工手学校(現工学院大学)第二代校長。明治24年、工学博士学位を授与。明治30年、蜂須賀文部大臣に呼び出され、新大学の理工科大学長就任を相談され受諾。明治30年、京都帝国大学理工科大学の創設に伴い初代学長に就任。明治33年、第三高等工業学校創立委員。明治33年、パリ万国博覧会の出品調査と実業学校視察のためフランスへ派遣。明治35年、新設された京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)の初代校長に就任(京都帝国大学理工科大学教授兼任)。明治39年、関西美術院を設立し顧問に就任。明治40年、京都帝国大学名誉教授。大正7年、京都高等工芸学校の校長を辞任して同校の名誉教授に就任。昭和18年、死去。応用化学者で高野連会長を長く務めた中澤良夫は息子。
◆藤井 信三
号は藤井鏡水。石川郡大野村出身。大野弁吉に学んだ。明治初期、大野弁吉の親書を持って上京し、星亨を訪ね、明治 3 年に開成学校に入る。横浜税関文書課長に就任。のち弁護士に転身し、次いで富士製紙会社の設立に参加した。 明治 23 年、死去。
◆開成学校
明治時代初期、東京府に設立された文部省管轄の洋学研究・教育機関で、当時のいわゆる「専門学校」(高等教育機関を意味し、後年の専門学校令に準拠する旧制専門学校とは異なる)の一つである。明治初期の官立機関としての「開成学校」は、明治元年(1868年)9月から明治2年12月(1870年1月)までの初期開成学校と、明治5年8月(1872年9月)から1877年(明治10年)4月までの後期開成学校に大別される。前者は、文久3年に発足した旧幕府直轄の開成所が、慶応4年5月(1868年4月)の江戸開城により閉鎖されていたものを明治新政府が接収し同年9月に「開成学校」として復興した。後者は、大学南校が第一大学区第一番中学として改編されたものを1873年(明治6年)4月に「(第一大学区)開成学校」と改称し、その後さらに東京開成学校と改称した。また開成学校・大学南校および東京開成学校の関係者の多くが1873年発足の明六社に参加している。1877年、東京医学校と統合されて(旧)東京大学が発足し、同大学の法文理三学部の母体となった。このため現在の東京大学の直接の前身機関の一つと見なされている。1873年11月4日:学制二編により開成学校語学課程(英・独・仏の3科)・独逸学教場・外国語学所を併合し(旧)東京外国語学校設立。英・仏・独・清・魯(露)の5語学科を設置。このため現在の東京外国語大学はこれをもって「建学」の年とし、直接の前身機関としている。