【古写真の調査後売却】明治28年・第1回時代祭と思われる風景(鶏卵紙、台紙貼り付け)

明治28年・第1回時代祭と思われる風景写真師台紙鶏卵紙

◆三条大橋
京都市にある三条通の橋。鴨川に掛かっている。橋が架けられた時期は明らかではないが天正17年(1589年)、豊臣秀吉 の命により五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修された。江戸時代においては、五街道のひとつ東海道につながる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられ、流出のたびごとに幕府の経費で架け替え・修復が行われた。現在の橋本体は2車線、歩道付のコンクリート製で1950年(昭和25年)に作られ、木製欄干は1973年(昭和48年)に更新されたが老朽化やシロアリなどの被害で劣化が激しく、橋を管理する京都市は欄干の取り換えだけで3億円、歩道の整備を含めると4億円が必要と見積もっており、費用の捻出に苦慮している。橋の名は、三条通と鴨川左岸(東側)を走る川端通の交差点名にもなっている。戦国時代末期の天正17年(1589年)に北条氏征伐の議が決まった直後に、豊臣秀吉が増田長盛に命じて三条大橋の修復・架橋させた。そのときの規模は、長さ64間4尺(126.0メートル[注釈 1])、幅は3間5尺5寸(7.5メートル)あり、擬宝珠に残る銘によれば、礎石は5尋(9.0メートル)の深さまで入れて、橋柱は63本全てを石柱としたもので、「石柱の橋は濫觴(らんしょう)なり」とある。
東海道五十三次
1601年(慶長6年)に徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の起点。
弥次喜多像
江戸時代に出版された『東海道中膝栗毛』の主役である弥次郎兵衛と喜多八の像がある。
像の側にある撫で石を撫でると縁起がいいと言われがある。
三条大橋擬宝珠刀傷跡
1864年7月8日(元治元年6月5日)に発生した池田屋事件で付いたとされる刀傷が、橋の北側と南側の2か所(西から数えて2つめの擬宝珠)に現存する。
三条高札事件
三条大橋の西詰め北側には、江戸時代に藩や幕府の高札を立てた「高札場跡」がある。この場所をめぐる特に有名な事件として、1866年(慶応2年)8月28日に発生した三条高札事件がある。なお、天正年間の大改造の際に使用された石の柱が現存する。
駅伝の碑
日本で最初の駅伝競走が、ここからスタートしたことを記念する説明碑「駅伝の碑」がある。1917年(大正6年)4月27日から3日間にわたり開催された。
大正期には電飾が欄干に施されていた。
処刑場として
近隣の川岸はかつて「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた。ここで処刑・晒し首にされた著名な人物を挙げる。
石川五右衛門 – 安土桃山時代の著名な盗賊。1594年(文禄3年)8月25日、釜茹での刑に処せられた。
豊臣秀次と、その妻子側室侍女 – 1595年(文禄4年)7月、豊臣秀吉より謀反の疑いをかけられ高野山で切腹した後、三条河原へ豊臣秀次の首が運ばれた。首が据えられた前で妻子侍女など39名が処刑され、秀次の首と共に1か所に埋められ見せしめの塚が作られた。この塚は1611年(慶長16年)角倉了以の高瀬川開削時に塚と石柱が見つかり、現在も瑞泉寺の境内にある。
石田三成 – 安土桃山時代の武将。1600年の関ヶ原の戦いに敗れ、捕らえられ六条河原で斬首刑となり、三条河原で晒し首にされた。
近藤勇 – 新撰組局長。1868年(慶応4年)4月25日、板橋刑場(武蔵国板橋宿付近)で刑に処せられたあと、首が塩漬けにして運ばれ三条河原で晒し首となった。
鴨川・花の回廊
三条大橋東側(京阪側)には、鴨川左岸の環境整備および護岸改修を行った治水整備事業の記念碑がある。これは、平安遷都1200年を契機に着手した「京の川づくり」事業の一環として1992年(平成4年)より事業化され、三条大橋から七条大橋間が「花の回廊」として整備されたことを記念するものである。なお、同事業はのちに「水辺の回廊整備・鴨川創造プラン」に引き継がれ、継続的に事業が行われている。

◆時代祭
京都市の平安神宮の祭りである。神宮創建を祝って始められたものであり、京都三大祭りの一つであるものの、葵祭や祇園祭に比べると歴史は浅いが、各時代の中心であった京都市でしかできない祭であり、京都市民が主体となる市民上げての祭りである。1895年(明治28年)に平安神宮が創建されたのち、神宮の管理と保存のための市民組織として平安講社が作られ、その記念事業として「祭り」が始められた。祭りを盛大にするため、東京奠都以前の京都の風俗を遡る時代行列が提案され、「時代祭り」と呼ばれるようになった。初回は、創建されたばかりの平安神宮への参拝として同年10月25日に行われ、その次の回からは、「祭神である桓武天皇と孝明天皇の二柱の御霊が、住まいであった御所から街の繁栄を見ながら行列のお供を従えて神宮へ行く」形となった。開催日も桓武天皇が長岡京から都を移し新しい都に入ったとされる日、すなわち京都の誕生日とも言える10月22日となった。祭り自体は10月15日の参役宣状祭(行列の役柄任命)から、23日の後日祭までの期間行われる。行列は8つの時代、20の列でそれぞれに時代を再現した衣装や道具を身につけた人々で行われ、最初は明治維新、ついで江戸、安土桃山、室町、吉野、鎌倉、藤原、延暦と時代を遡って続く。参加人数は約2000人、長さは2kmに及び約3時間の行程となる。先頭の名誉奉行は京都府知事、京都市長らが務める。また時代行列の後には祭り本来の主役である神幸列などが続く。行列前方、明治維新・維新勤王隊列の鼓笛隊は官軍の山国隊で、1895年(明治28年)の第1回から大正時代までは生存していた旧山国隊の隊士とその子弟が行列に参加していたが、遊興による経済的理由及び農耕の収穫期に重なる事から数年に一度、そして不参加となり、1921年(大正10年)からは、第八社の人々によって新たに維新勤王隊が新設された。つづく徳川城使上洛列は、大礼や年始などの際に親藩または譜代の諸侯が城使として上洛したものを再現したものである。行列の先頭には、槍持、傘持、挟箱などの奴振りがみられ、いわゆる大名行列の体をとっている。また、明治以降、南朝を正統とする皇国史観や明治から終戦まで後醍醐天皇に叛き室町幕府を開いた室町幕府の初代将軍 ・足利尊氏を国賊としていた歴史的経緯などから、室町時代は除外されていたが、2007年(平成19年)より桓武天皇1200年記念大祭を機に室町時代列が新たに行列に加わった。正午に京都御所を出発。丸太町通から烏丸通に入り南下、 御池通、河原町通 と京都の中心部を練り歩き、最後は三条通から神宮通に入って平安神宮に至る。約4.5キロ。建礼門前行在所 ⇒ 堺町御門 ⇒ 烏丸丸太町 ⇒ 烏丸御池 ⇒ 河原町御池 ⇒ 河原町三条 ⇒ 三条大橋 ⇒ 東山三条 ⇒ 三条神宮道 ⇒ 慶流橋 ⇒ 平安神宮