【古写真の調査後売却】板垣征四郎所有の初代神風型駆逐艦・弥生(台紙貼付、大判)

板垣征四郎所有の初代神風型駆逐艦・弥生写真師台紙鶏卵紙

◆弥生 (初代神風型駆逐艦)
弥生(彌生)は、大日本帝国海軍の駆逐艦で、神風型駆逐艦 (初代)の3番艦である。同名艦に睦月型駆逐艦の「弥生」があるため、こちらは「弥生 (初代)」や「弥生I」などと表記される。1904年(明治37年)8月20日、横須賀海軍工廠で起工。1905年(明治38年)2月15日、命名(製造番号第3号)。同年8月7日、進水。同日附で駆逐艦に類別。同年9月23日、竣工。1924年(大正13年)12月1日、駆逐艦籍より除籍。雑役船に編入。1926年(大正15年)6月16日、廃船。同年8月10日、豊後水道沖島沖で、標的として撃沈処分。
艦長
土師勘四郎 少佐:1905年9月1日 – 12月12日
駆逐艦長
土師勘四郎 少佐:1905年12月12日 – 1906年1月25日
庄野義雄 少佐:1906年1月25日 – 2月14日
大宮釤次郎 少佐:1906年2月14日 – 1907年2月9日
前川義一 大尉:1907年2月9日 – 9月28日
吉村信成 少佐:1907年9月28日 – 1908年7月16日
影浦喜次郎 大尉:1908年7月16日 – 11月20日
小沢八郎 大尉:1908年11月20日 – 1910年5月23日
横尾敬義 大尉:1910年5月23日 – 1911年5月23日
本宿直次郎 大尉:1911年5月23日 – 12月1日
藤田許太郎 大尉:1911年12月1日 – 1913年4月1日
松平胖 大尉:1913年4月1日 – 1913年12月1日
高辻広長 大尉:1913年12月1日 – 1914年5月27日
加藤雅一 大尉:1914年5月27日 – 1915年12月13日
塩島美雄 大尉:1915年12月13日 – 1916年4月11日
古川良一 少佐:1916年4月11日 – 1916年10月27日
渋谷荘司 大尉:1916年10月27日 – 1917年7月2日
水落高五郎 少佐:1917年7月2日 – 12月1日
森田重房 大尉:1917年12月1日 –
石井順三 大尉:不詳 – 1918年12月1日
奥野晃 大尉:1918年12月1日 – 1919年4月26日
後藤英次 大尉:1919年4月26日 – 1921年9月1日
(兼)春日末章 大尉:1921年9月1日 – 12月1日
(兼)須藤平三郎 少佐:1921年12月1日 – 1922年4月8日
福原一郎 大尉:1922年4月8日 – 6月10日
園二郎 大尉:1922年6月10日 – 1923年4月1日
村瀬頼治 大尉:1923年4月1日 – 1924年2月5日
(兼)宮武重敏 大尉:1924年2月5日 – 6月16日
(兼)吉田孝 大尉:1924年6月16日 –

◆神風型駆逐艦
大日本帝国海軍が保有した駆逐艦の艦級。 本型が竣工した当時の日本海軍は、『○○型』等の『艦型』を書類上規定しておらず、艦艇類別等級表の改訂により、1926年(大正15年)12月1日附で正式に白露型駆逐艦(しらつゆがたくちくかん)と類別された。 1928年(昭和3年)4月1日附で当時ネームシップの「白露」が除籍され、同年8月1日附で第一号型駆逐艦が神風型駆逐艦と命名された。 1番艦(潮)の就役開始は1905年(明治38年)7月15日。退役完了は1930年(昭和5年)6月1日。最初に国産化された春雨型駆逐艦の改良型として1904年(明治37年)に建造が開始された。改良型とはいえ、基本設計は同じ国産の春雨型とほぼ同等であり、準同型艦と言った方が正しい。春雨型3隻(吹雪、有明、霰)を神風型駆逐艦にまとめている資料もある。 日露戦争に備え明治37年度計画で25隻、明治38年度計画で4隻、明治39年度計画で3隻、計32隻という大量建艦がおこなわれたが戦争には間に合わず、竣工はすべて終戦後となった。建造所の内訳は、呉工廠(吹雪、霰、潮、子日)、横須賀工廠(有明、神風、初霜、弥生、如月、若葉、初雪、響)、川崎造船所(朝風、春風、時雨、初春、卯月)、佐世保工廠(夕暮、夕立、三日月、野分)、三菱造船所(白露、白雪、白妙、水無月)、舞鶴工廠(追風、夕凪、浦波、磯波、綾波)、大阪鉄工所(朝露、疾風)、浦賀船渠会社(長月、菊月)。1912年(大正元年)8月28日附で実施された艦艇類別等級の改訂により、三等駆逐艦(600トン未満)に類別。 後日、一部は掃海艇に転用された。1926年(大正15年)12月1日の段階で駆逐艦籍に残るのは2隻(白露、三日月)となり、これをもって正式に『白露型駆逐艦』と呼称された。また掃海艇としては『潮型掃海艇』に類別。その後、「潮」の除籍により掃海艇浦波型に改訂された。1928年(昭和3年)8月1日附で浦波型掃海艇は第七号型掃海艇(旧磯波)に類別された。この頃までに本型は全艦駆逐艦籍から除籍されており、艦名は神風型駆逐艦 (2代)、睦月型駆逐艦、吹雪型駆逐艦、初春型駆逐艦、白露型駆逐艦、陽炎型駆逐艦のそれぞれに継承された。

◆板垣 征四郎
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。栄典は正三位・勲一等・功二級。満州国軍政部最高顧問、関東軍参謀長、陸軍大臣などを務めた。板垣盛(海軍少将)は弟。関東軍高級参謀として石原莞爾とともに満州事変を決行し、第二次世界大戦においては第7方面軍司令官を勤めた。戦後の極東国際軍事裁判にてA級戦犯として死刑判決を受け処刑された。731部隊の前身部隊である関東軍防疫部の設立提案者。元参議院議員の板垣正は次男。岩手県岩手郡沼宮内村(現・岩手町)出身。仁王尋常小学校、盛岡中学校、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍士官学校(16期)で学び、陸軍大学校(28期)を卒業。祖父・佐々木直作は盛岡藩士族で、藩校作人館の教授や藩主の侍講、郡奉行格勘定奉行を務めるなど藩の中心人物の一人であった。戊辰戦争の秋田戦争で盛岡藩が敗れると、新政府により藩の責任者として楢山佐渡、那珂通高と共に江戸へ護送され、増上寺に幽閉される。後に釈放されると、岩手郡沼宮内の地に隠遁し板垣桑蔭を名乗るようになる。征四郎は日記の中で「祖父桑蔭は聖賢に近し」「文武兼備の聖人」「儒学の蘊奥を究めた」と記しており、非常に尊敬していた様子が窺える。父・板垣政徳は気仙郡郡長、女学校校長を務めた。家の宗旨は日蓮宗である。盛岡中学では三級上に米内光政、一級上に金田一京助や及川古志郎、野村胡堂などが、一級下には石川啄木が居た。陸軍幼年学校時代は生徒監だった大越兼吉から厳しい訓育を受けた。大越が日露戦争の奉天会戦で戦死すると、その遺児である大越喜久子と後に結婚することとなる。陸軍士官学校は第16期で岡村寧次や土肥原賢二、永田鉄山や小畑敏四郎らと同期で交友も深く、板垣も二葉会、一夕会に所属していた。
満州時代
1929年(昭和4年)に関東軍の高級参謀に就任。1931年(昭和6年)、石原莞爾らと謀り柳条湖事件を起こし、これを奇貨として満州事変を実行した。満州事変に於ける関東軍の行動は、宇垣一成派が追放された後に陸軍の実権を握った一夕会系中堅幕僚層からの支持を受け、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、参謀本部の東条英機編成動員課長、渡久雄欧米課長などが、「関東軍の活動を有利に展開させる」方向で動くこととなる。1932年(昭和7年)、軍司令部付で満州国の執政顧問・奉天特務機関長となる。しかし同年の荒木貞夫による皇道派人事で関東軍司令官に武藤信義大将、参謀長に小磯国昭中将、参謀副長に岡村寧次少将が就任し満州組が左遷されると、この頃の板垣にはもはや関東軍を牛耳る力はなかったとされる。熱河作戦では天津特務機関長となり、反蒋介石勢力によるクーデターを起こさせる「北支親日政権」樹立のための調略活動に従事していたがこれに失敗、ヨーロッパ出張を命じられる。しかしその後永田ら統制派が陸軍内部の主導権を奪い返すと満州組も復活し、ヨーロッパから帰国した後は満州国軍政部最高顧問(1934年8月~12月)、関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官(1934年12月~1936年3月)、関東軍参謀長(1936年3月~1937年3月)を歴任。
満州国独立
満州事変勃発の前月、大連市 のヤマトホテルにおいて開かれた有力者による会合において板垣は、「将来の世界は、大国だけが存在し、他の小国は経済的に従属の地位に落とされる。確実な資源の供給地と、製品の販路を持たない国は、経済的に独立することができない。日本が満州を失えば、重工業の基礎は破滅だ。満州は戦略的拠点だ。現在の情勢では、日ソ戦争は北満で起きる。大日本建国には満州は絶対に必要な戦略拠点だ。」と語っている。また、関東軍参謀長時代には「満州帝国は治安ますます良好で、庶政は発展している。満州国は日、鮮、満、漢、蒙の五族協和の国だ。満州三千余万の人口中、日本人は僅か五十万人である。これでは心細い。二十年間、百万戸、五百万人の日本移民が実現されなければならない。」と述べ、関東軍主導による満州農業移民百万戸移住計画を推し進めた。また満州国独立に際し、上海公使館付陸軍武官補佐官だった田中隆吉少佐(後に少将)に対し、「満州独立に対する列国の目をそらすため、上海でことをおこせ」と資金2万円を供与するとともに工作を命じた。第一次上海事変のきっかけとなる上海日本人僧侶襲撃事件である。後に東京裁判において田中は、「板垣閣下は…関東軍がもっておりました内面指導権というものをいかんなく行使せられまして、巧みに満州国をコントロールされました。」と、述べるなど満州国における板垣の影響力の大きさを語っている。
「分治合作」論
岡田内閣は対中融和的な外相・広田弘毅の「広田三原則」を持って軍部を牽制しようとしたが、対中政策に関わる関東軍ら出先軍部の高級幕僚は「支那は統一せらるべきものに非ざること」と考え華北分離工作を進めていた。満州時代の板垣はいわゆる「分治合作」論を唱え、対中工作の指針とした。日ソ戦争が起きた場合中国はソ連側に立つ公算が高いと考え、それは蒋介石政権の思想的基盤は排日にあり、財政的基盤を英米に依存する蒋介石政権が日本と親善関係に入ることはないとして日本のこれまでの対中政策を批判し、以下のような方針を採用すべきとした。「…その要点は支那大陸を人文及び地文上の見地に基づき分立せしめ」、日本は分立した個々の地域と直接提携を結び、日本の国力によって各地域間の対立相克を防ぎ、各地域内の平和の維持と民衆の経済的繁栄をはかり、究極的には日・満・華、三国提携の実績を挙げるべきである、とした。
関東軍による内蒙工作
ソ連・中国の連帯と中国への共産主義の浸透を危惧する板垣ら関東軍の幕僚は内蒙古の工作を進め、内モンゴル独立運動の指導者、デムチュクドンロブ(徳王)を支援して、関東軍参謀長の機密費の流用や冀東防共自治政府による特殊貿易の収入を充てるなどの援助により蒙古軍政府を組織させ、綏遠事件を起こした。こうした関東軍の急進的な活動に批判的でこれを止めようとした石原莞爾参謀本部戦争指導課長は関東軍本部を訪問し、陸軍中央部の指示に反する内蒙工作を中止するよう要望したが、武藤章第二課長以下の関東軍幕僚は冷笑的な態度で接し、また工作の主導者である板垣はかつての上司であり、石原の「二度と柳の下に泥鰌はいない」という忠告も無視したため[6]、陸軍中央による統制の試みは失敗した。
支那事変以降
支那事変(日中戦争)では第5師団師団長として出征する。平型関と忻口鎮(きんこうちん)の戦闘では、険しい地形を生かした林彪らの八路軍に阻まれ多くの死傷者を出す。1937年11月9日、第20師団の救援により、山西省太原市を占領した。
張作霖爆殺事件・満州事変・支那事変等の重大事件が相次いで発生すると、中国の現地事情に精通した支那通の軍人が求められるようになっていった。また、地方軍閥がなお割拠する中国の戦場では、欧州の近代的軍事技術はあまり役に立たないので、『豪傑型』が多い支那通軍人の陸軍内部でのステータスは相対的に高まっていった。こうした中、第一次近衛内閣改造で1938年6月3日、陸相兼対満事務局総裁に就任。これには林内閣で組閣工作に失敗した十河信二の近衛への進言があった。日支和平に積極的な満州組の総帥である板垣を牽制すべく、陸軍次官梅津美治郎(陸士15期で板垣の1期先輩)は統制派の総帥だった東条(17期)を自分の後任次官にさせた。一方政治畑の経験が無い板垣も自ら事務に堪能な東条を次官に求めた経緯があり、奇しくも両者の要求が一致した格好である。のちに戦線の拡大か不拡大かで東条と多田駿参謀次長が争い、板垣は多田と意を通じるも、「喧嘩両成敗」として両者を更迭した。平沼内閣総辞職に伴い陸相を退任する際、自らの後任に推したのは多田であったが、それは叶わず畑俊六が就任することとなった。陸相在任中は宇垣一成外相による日華和平交渉に際しては、「蒋介石の下野」を講和の条件とする強硬論をぶち上げ、結果として交渉不成立の原因を招いた。当時の蔵相であった池田成彬は和平交渉に賛成であったはずの板垣の行動に対して、「次官以下のところに非常な強硬論者があって、それが板垣君を引きずっていたように自分は思う」と語っている。陸軍の下克上の中で、板垣は宇垣や池田の期待していたほどの役割を果たせなかった。
張鼓峰事件とノモンハン事件
張鼓峰事件では板垣は昭和天皇に対し武力行使の裁可を求めた。天皇が「関係大臣との連絡はどうか」と問うと板垣は、宇垣一成外相も米内光政海相も賛成であると答えた。しかし二人とも反対であると知っていた天皇は「自分をだますのか」と怒り、更に柳条湖事件などの陸軍の独断専行に不信を抱いていた天皇は「今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」と、板垣達を叱責した。しかしこの時板垣は天皇の意を忖度した閑院宮参謀総長が奏上を取りやめていたこと、またそのことが参謀本部から陸軍省に通告されなかったこと、更に同意を取り付けたと思われていた宇垣外相が翻意していたことを聞かされていなかったとの稲田正純の証言がある。平沼内閣でも陸相に留任。ノモンハン事件では参謀本部の不拡大方針を無視した関東軍参謀の辻政信の独走を「まあいいじゃないか」と黙認した。また、「一個師団位いちいちやかましくいわないで、現地に任せたらいいではないか」と、関東軍の作戦行動を承認した。
防共協定強化問題
1938年8月26日、日独伊防共協定強化問題について五相会議が開かれた。ナチス・ドイツはこの協定を強力な軍事同盟とし、同盟の対象をソ連以外の英・仏等にも拡大しようと提案してきたが、独伊に協調的な板垣と、英米仏等にまで拡大することに否定的な宇垣外相とが対立した。11月11日にも五相会議が開かれ、英仏等のみを対象するものではないと決定されたが、これを受けた大島浩駐独大使が反発。そこで12月初めに五相会議を開いたところ板垣は、5月、11月の五相会議も対象として英仏等を含むという決定をしていたと言い出した。他の大臣はこれを批判したが板垣が反発したため、結局何も決まらないままに終了した。1939年7月5日、陸軍内の人事異動案について天皇の事前承諾を得るための報告中、寺内寿一軍事参議官のドイツ派遣を「防共強化を精神的に強く結合する意味」でも必要と述べたことから、これに不快感を覚えた天皇から「お前は自分の考をよく知っているじゃあないか。この前も軍事参議官の会議で、外務大臣は軍事協定に賛成である、という虚構の事実を報告している。まことにけしからん」と叱責され、更に天津問題での板垣の返答ぶりに怒った天皇は「お前はどうも頭が悪いじゃないか」とまで述べている。
桐工作
「桐工作」では板垣は「蒋介石の下野」でなく蒙疆・華北への防共駐屯を求めたり、日本側は汪精衛・蒋介石政府の合作を日本が仲介する事で蒋介石・汪精衛・板垣征四郎の会談を要求したが、実現しなかった。板垣は一度は敵対していた蒋介石と和睦を考えたのである。
東亜連盟
独ソ不可侵条約成立による平沼内閣倒壊で陸相を退き、支那派遣軍総司令部の初代総参謀長となってからは1939年9月15日の満州国承認記念日の演説で東亜連盟を強調し、宮崎正義の東亜連盟論と杉浦晴男の東亜連盟建設綱領に題字をおくり、第二次近衛声明(東亜新秩序声明)がこれに沿うものとするなど東亜連盟論者であった。板垣を慕った本部附きの辻政信とともに起草した 「派遣軍将兵に告ぐ」 で日満支三国による東亜連盟結成を訴え、板垣と会談した宮崎らは嘱託となり、辻の部下津野田知重は同じ派遣軍勤務の三笠宮崇仁親王とのちに東条暗殺を計画するなど支那派遣軍は和平工作の拠点となった。
朝鮮軍司令官から第七方面軍司令官へ
1941年(昭和16年)に大将に昇進したと同時に朝鮮軍司令官となる。朝鮮軍司令官となってからも東亜連盟運動に関与しており朝鮮の活動家青年達とも接触を持ったが、司令官としては朝鮮総督の小磯国昭や朝鮮総督府政務総監らと共調した内鮮一体の植民政策を押し進めた。後半の1945年(昭和20年)4月、第7方面軍司令官に就任。
戦後
第7方面軍司令官としてシンガポールで終戦を迎え、イギリス軍に身柄を拘束された。その後連合国によりA級戦犯に指定され、極東国際軍事裁判開廷初日の1946年(昭和21年)5月3日に、空路東京へ移送された。裁判においては確定訴因10項目の内8項目を挙げられ、訴因1では「1928~1945に於ける戦争に対する共通の計画謀議」を、訴因29、31、32では米・英・蘭に対する太平洋戦争の遂行を、他に中国、ソ連、シンガポールにおける罪を問われ、死刑判決を受けた。板垣本人は獄中に記した日記の中で「満洲事変記念日。噫、十七年前ノ今月今日、満州事変ハ成功セリ。其後支那ニ手ヲ出シタノガ誤リ。万死ニ値ス」と記している。1948年(昭和23年)12月23日、死刑執行。享年64(満63歳没)。