
◆大鳥 圭介
(写真師・大野弁吉とも親交があったという)
江戸時代後期の幕臣(歩兵奉行、幕府伝習隊長、陸軍奉行)、医師、蘭学者、軍事学者、工学者、思想家、発明家。明治時代の教育者(工部美術学校校長、工部大学校校長、学習院第3代院長、華族女学校校長)、政治家、外交官、官吏。位階勲等は正二位勲一等男爵。別名、大鳥純彰。号は如楓(じょふう)。家紋は鶴の丸。1833年(天保4年)赤穂郡畑念村小字石戸(現・兵庫県赤穂郡上郡町岩木丙字石戸)に村医者の息子として生まれる。岡山藩閑谷学校で漢学、赤穂・中島意庵の下で西洋医学、適塾で医学を学んだ後大木忠益(坪井塾)で塾頭となり江川塾から教授に招聘され尼崎藩に仕官。旗本となり、開成所洋学教授から歩兵頭、歩兵奉行となり伝習隊を結成。戊辰戦争では箱館・五稜郭を占拠し陸軍奉行となる。戊辰戦争後に入牢するが黒田清隆の尽力で赦免され、開拓使五等出仕として明治政府入り。大蔵小輔・吉田清成の随行として大蔵少丞に就任し米国と英国に渡航し外債募集を行う。次いで工部省に入り公的に日本人として初めてシャム国(タイ)を訪問。第1回内国勧業博覧会御用掛に就任。工学寮美術学校が開校されると校長となり、次いでヘンリー・ダイアーを教頭に据え、工学権頭・工学頭、工部省工作局長を経て工部省工学寮工学校(工部大学校に改称、東京大学工学部の前身)の初代校長となる。続いて大書記官兼参事院員外議官補工部技監に任じられ、第1次伊藤内閣の農商務大臣として転出した谷干城の後任として第3代学習院長に就任、華族女学校校長を兼務。外交面では、陸奥宗光の後ろ盾で清国朝鮮国駐箚公使として壬午事変、甲申事変により悪化した清国の袁世凱と交渉。学者としては、江戸で松本良順と交流しコレラの治療法を研究。洋式兵法を研究しフランス式兵制を幕府に導入し伝習隊を結成。日本で初めて金属活字(大鳥活字)を作成し、『築城典刑』『砲火新論』などの翻訳書を出版。蒸気船の模型を設計・製作。日本初の温度計、気球を制作。また漢詩や和歌にも通じ、戊辰戦争前後の記録として『南柯紀行』を記し、英国を視察した際にダーウィンの『種の起源』を読み『進化論』を解説した。
◆田上明次
(兵51、249/255三重).大佐.
1923.7/1少尉候補生
24.12/1少尉
26.12/1中尉
29.11/30大尉32.12/1-33.11/15伊53航海長>伊51水雷長36.12/1伊70水雷長37.3/20-7/1呂68艦長-37.12/1隠戸運用長
37.12/1少佐、三隈水雷長39.9/1呂63艦長11/20伊55艦長41.4/28伊25艤装員長10/15-43.7/15艦長
41.11/1中佐43.7/7-10/10伊11艦長/15伊45艤装員長12/28-44.6/10?艦長
45.9/5大佐
復員事務官46.6/1宗谷艦長.
◆青木 宣純
日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。最も初期の「支那通軍人」。通算13年の中国生活を送った。佐土原藩士・青木新蔵の長男として生れる。陸軍幼年学校を経て、明治10年(1877年)5月、陸軍士官学校に入学。明治12年(1879年)12月、砲兵少尉に任官し、翌年12月、陸士(旧3期)を卒業。明治14年(1881年)4月、山砲兵第2大隊付となり、陸士教官、参謀本部出仕などを経て、明治17年(1894年)10月から同20年(1887年)12月、清国差遣となり、広東、北京に駐在。明治21年(1888年)3月、近衛砲兵連隊付となり、陸士教官、参謀本部第2局員、ベルギー留学などを経て、明治27年(1894年)8月、第1軍参謀に発令され、翌月から明治28年(1895年)5月まで日清戦争に出征した。明治28年(1895年)5月、参謀本部第2局員に就任し、明治30年(1897年)10月から同33年(1900年)3月まで清国公使館付となる。袁世凱の要請で、新建陸軍の軍事顧問として、軍の指導、育成にあたった[要出典]。帰国後、参謀本部付となり、第5師団司令部付、清国公使館付、参謀本部員を歴任し、明治35年(1902年)12月、砲兵大佐に昇進し野戦砲兵第14連隊長に就任。明治36年(1903年)11月、清国公使館付となった。この頃、京師警務学堂に勤めていた漢学者の中島竦と知り合い、後に蒙古研究の編纂を依頼している。日露戦争では、明治37年(1904年)7月に満州軍総司令部付として北京に駐在し、配下に特別任務班と呼ばれる組織を従え、馬賊使用や鉄道・電線破壊工作に従事した。明治38年(1905年)1月、清国公使館付となり、明治40年(1907年)11月、陸軍少将、さらに大正2年(1913年)8月、陸軍中将に進み旅順要塞司令官に就任した。
◆杉村濬
生年弘化5年2月16日(1848年)
没年明治39(1906)年5月21日
出生地陸奥国盛岡(岩手県盛岡市)
別名幼名=順八
経歴南部藩士の家に生まれ、のち江戸に出て、島田重礼に入門し塾頭となる。明治7年征台の役に参加、8年退官し、「横浜毎日新聞」の論説記者となった。13年外務省御用掛、のち外務省書記生として朝鮮・京城に赴任、15年壬午の変ではあやうく難をのがれた。19年京城公使館書記官。28年閔妃暗殺事件に関連して逮捕されたが、翌年免訴、ついで台湾総督府事務官に就任。33年外務省通商局長として海外移民計画を立案、37年南米移民事業促進のためブラジル公使となった。著書に「在韓苦心録」がある。
◆新納時亮
海軍少佐
新納時亮、-1914(鹿児島).大佐.
1887.12/24少佐>迅鯨副長92.6/29参謀員.
◆上原重雄
中佐。大正4年(1915年)12月、参謀本部付となり、大正6年(1917年)1月から同12年(1923年)1月まで北京政府応聘として黎元洪の軍事顧問を務めた。この間、大正8年(1918年)8月、予備役編入、大正10年(1921年)4月、後備役となった。