大野 弁吉(おおの べんきち)

大野弁吉

父は、京都五条通りの羽根細工師。 叔父で延暦寺吏人・佐々木右門の養子になり、佐々木薫(別名は佐々木義時)と名乗った。
中村屋弁吉とも称して、一東、鶴寿軒と号した。 四条流の画も学んでいる。また医師でもある。
洋算を教えながら、ゼンマイ仕掛けの蛙、水素ガスで飛ぶ鶴、ライターやピストル等も発明したという逸 話が残り、発明家として著名。
文政 3 年頃、長崎に遊学、豊後町の瀬戸物商・伊里屋仙右衛門家に寄宿し、オランダ人より西洋医学、理化学、天文学、写真術、絵画、彫刻、特に蘭学を 学び、対馬、朝鮮にも渡ったともいわれる。 のち紀伊国にも遊学。
文政 11 年、蘭館出入りの従僕となりシーボルトの身辺雑用をしていたとき、シーボルト事件が起こり退 避した。ただし、蘭館職員名簿に名がないため真偽は確定できていない。
文政12年、米林八十八が京都五条通橋下の奇物師・中村屋弁吉(写真師・大野弁吉)に入門。番頭を務め、共に移住していた。
文政13年、 米林八十八が 大野弁吉とともに帰郷し、石川郡大野村に移る。
米林八十八は天保6年まで大野弁吉のもとで学び、一度離れる。
なお、大野弁吉の号「一束」、米林八十八の号「一光」については、フリーメーソンの影響があったという意見もある。
文政 13 年頃、加賀の絡繰師として活躍している。
天保 2 年、妻が加賀国石川郡大野の中村屋の生まれのため、稲荷町に移住。大野を名乗る。
隣村の宮腰(金沢市金石町)の豪商・銭屋五兵衛と親しくなり、様々な絡繰りや発明が広く知られるようになる。

天保 15 年以前、写真機を製作して、三十歳の妻(うた)を撮影している。 嘉永 3 年、水戸の徳川齊昭が印影鏡(ダゲレオタイプ)で弁吉を撮影している。 文久 2 年、藤井信三(大野弁吉に算術を習っていた人物で、のち福沢諭吉を頼り上京している)を撮影し、米林一光は大野弁吉に入門して写真術を学んで小池兵治に伝授した。 本多家家臣・高山一之も写真術の伝授を受けている。 文久年間、加賀藩の蘭法医・河波有道が大野弁吉のもとを訪ね、写真術を見学している。
文久 3 年、加賀蕃の洋学校の壮猶館の舎密方御用手伝いに就任。(固辞したという話も、20人扶持のみ固辞したという話もある) 明治 3 年、上堤町に写真館を開業。 明治 3 年没。 福沢諭吉や大鳥圭介、渋沢栄一等とも親交があったという。 自身で作成した写真機や自写像は現存する。
妻・うたは中村屋八右衛門の長女で石川郡大野村出身であるが、幼少のとき河北郡津幡の某家の養女となり、のち父が死亡し、母と祖母は京都(大野弁吉の生家)に移住した。
浮彫師・相川松濤や石川郡徳丸村の医師松江安見などは大野弁吉に学んだという。
また、藩校などで大野弁吉によって学んだり思想的な影響を与えた可能性があると思われる人物は多い。

生年/出身: 1861 京都(五条通り)

開業年: 1870

開業地、主要拠点: 石川(加賀、上堤町)

師匠:

弟子: 高山 一之 米林 八十八 小池 兵治 藤井 信三