【古写真の調査後売却】黒装束の武士(写真師・江木松四郎。鶏卵紙、手札サイズ台紙貼付)

◆山崎玄修(山崎玄脩)
岡山県医学校、産科医師。新潟県西蒲原郡横田出身。東京大学医学部鉄門倶楽部の記載を見るに第一頁の明治9年卒業生31名の中に、長谷川順次郎と山崎玄修の名前が書いてある。山崎玄修は東大卒後、新潟県立医学校校長、済生学舎副舎長、蘇門病院院長を務めた。著書に「医科全書解剖篇」「婦人病論」「朱子産婆論」「産科要論」等がある。創立当初から講師を務めた「山崎元脩」は西蒲原の出身。長谷川順次郎とは同い年で、共に長谷川宗済の元で漢方医学を学びました。順次郎ら宗済の門下生と共に上京し、東京医学校で学んでいます。(この時、離婚までしての決意の上京だったそうです。)山崎元脩は医学校を卒業すると、済生学舎の副校長に着任しました。明治13年、新潟医学校長に任命されますが、再び上京すると済生学舎に戻り長谷川泰を助けました。正岡子規と夏目漱石とは明治22年1月頃に交友が始まったようである。この年の5月9日に子規は突然喀血した。10日に俳句を50句ほど作り、「子規」という号を使った。子規とはホトトギスのことで、この鳥は血を吐くような鳴き方をするらしい。13日に漱石は友人と子規を見舞って、その帰りに山崎元修という医師を訪ねて子規の病状を聞いている。

江木松四郎
(江木写真館の弟子や門人は江木保夫の項目に記載。渡部進のみ江木松四郎の項目に記載)

兄は江木保夫。父は頼山陽(歴史家、思想家、漢詩人、文人)の門人、備後福山藩の老中・阿部正弘の儒官・江木鰐水。 江木鰐水は福山藩士だったが、維新後に愛国社を結成。養蚕製糸、築港、塩田開発を計画した。 江木保夫は 5 男、江木松四郎は 6 男。長男から 3 男は若くして亡くなっており、4 男には明治 3 年以降複 数回の渡米経験のある江木高遠(官僚、外交官)がいる。 ただし、江木保夫は馬屋原氏の養子と表記があり、そのため、 江木保夫と 江木松四郎は同年の出生となっている。 同じ備後福山に儒者・馬屋原重帯の家系があるが、関係は不詳。安政 3 年、江木保夫(5 月)、江木松四郎(11 月)生まれる。 江木保男は中江兆民の仏学塾で学んでいた。明治 8 年、司法省に入るが、その後は三井物産に在籍。まもなく商業に転じて貿易商をいとなむ。 明治11年、パリ万国博覧会に出向き、郵便報知新聞社に博覧会記事を寄稿している。明治 13 年、アメリカからソーラーカメラ、写真引伸器械を輸入、東京京橋区山城町三番地(銀座6丁目) に江木商店(江木写真店)を江木保夫、江木松四郎が共同で開店。 江木保夫が経営面、江木松四郎が技術面を担当したようである。 保男はオランダへ、松四郎はアメリカ(サンフランシスコ)へ留学し、写真術、業界事情について研究。 明治 14 年、江木松四郎は第二回内国勧業博覧会で受賞。 明治 15 年、江木松四郎は京都府博覧会で受賞。明治16年、 江木保夫 はアムステルダム国際植民地貿易博覧会に出向いて海外の商業事情を視察。明治 17 年、帰国後、神田淡路町に江木写真店を開店。 明治 23 年、内国勧業博覧会に出品して褒状を受けた。 明治 24 年、新橋丸屋町(銀座 8 丁目)の土橋北詰の牛肉店・黄川田(きかわだ)の土地を買い取り、六層塔の支店を設けた。 明治 24 年、技師には成田常吉(銀座支店)がいた。 明治 24 年、濃尾地震の惨状を撮影するために現地に写真家を派遣した。 明治 26 年、向島言問間に軽便写真場を組立て写客の求めに応じて撮影した。 写真業以外に油画、絹画、クレヨン画、インデアンインキン画、写真帖などを兼業した。 技師に工藤孝(神田江木本店)等が居る。 明治 31 年、江木保夫死去。 明治 32 年江木松四郎死去。 江木保夫の死後、 江木 松四郎 の妻・エツ子は 13 歳の息子・江木定男を抱えて銀座支店の経営に当たった。 神田本店は 江木松四郎が受け継ぐが、翌年亡くなったため、息子・江木善一が後を継ぐ。 江木定男(二代目)はやがて官吏(農商務省)の道を歩み、経営は母エツ子を中心に行われた。 技師長に中村利一も加わり、宮家・華族・財界などを顧客とし、繁盛するようになった。 江木写真店には大正 2 年(1913 年)、アメリカで写真術の修行をして帰国した五十嵐与七が入店。江木保夫の妻は、父・江木鰐水の門人で官僚の鶴田皓の娘・鶴田蝶子。