
若松城は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。地元では鶴ヶ城と呼ばれるが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。文献では黒川城、または会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡の名称で指定されている。1868年(明治元年)9月に開城すると新政府軍に引き渡され、兵部省の所管となり、仙台鎮台が管理した。翌年には会津藩に代わって若松県が発足し県庁を城内の建物に置いたため、若松県が城の管理を委任された。1872年(明治5年)5月に、パリ外国宣教会のマロン神父(Jean-Marie Marin)とスイス人で横浜居留地で生糸輸出商を営み、デンマーク領事も兼ねていたエドゥアール・ド・バヴィエ(Eduard de Bavier)らが、養蚕視察のため函館から横浜まで旅行をし、若松城に立ち寄った。その時、バヴィエらに雇われ、旅行に同行した日本人写真師の小山弥三郎が撮影したのが、今に残る取り壊し前の若松城の古写真とされてきた。その後の会津若松市の調査でイタリアにより鮮明な写真があり、その画像から城の東面を写したことがわかり、小山の写真とは向きが異なると判明した。さらに3点目の南東面をとった写真を国内で発見、撮影の向きは小山と共通するものの、3点目は天守の傷みが少なく撮影時期が小山より古いと推定され、2018年時点で撮影者などの詳細は不明である。この旅行記はフランス語で『函館から横浜までの旅』という題名で1874年(明治7年)にリヨンで教会の雑誌に掲載され、H・チースリク(独: Hubert Cieslik、1914年-1998年)による日本語の部分訳は1968年(昭和43年)に『宣教師の見た明治の頃(函館より江戸へ)』として上梓されている。1873年(明治6年)1月、明治政府による全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(廃城令)により存城処分と決定(すなわち陸軍省の財産に決定)された。同年12月には若松県権令沢簡徳から『旧若松城廃毀之儀ニ付建言』により、政府に城郭建造物の取壊しが建言された。1874年(明治7年)1月には陸軍省から仙台鎮台へ「旧若松城は営所建築の場所であるので、石垣や立樹等を除き旧来の建物で必要無いものは取壊し払下げすべく取り計らう事」旨の通達]がされ、同年末までに天守をはじめとする建造物はすべて解体された。本丸にあった櫓の一つである「御三階」は上記建言以前の1870年(明治3年)、阿弥陀寺(会津若松市七日町)に移築され、現存する。また本丸大書院から御三階と共に同寺に移された唐破風の表玄関は、御三階の玄関に転用されている。