
◆人物写真収集家・井関盛艮
黎明期に写真技術を学んだ人物・大野昌三郎と同時代の宇和島藩士。
明治期の官僚・実業家。初名は峰尾・字は公敦。通称は斎右衛門。書によっては名を「盛良」とするものもある。藩主伊達宗城に仕え、安政6年(1859年)に山奉行、文久3年(1863年)に大目付役軍使兼寺社奉行を務め、後に藩命によって京都や長崎で政治工作にあたる。維新後は宗城に従って新政府に出仕して外国事務局や外務省に勤務、明治2年4月17日(1869年5月28日)に神奈川県知事に任じられる。神奈川県知事時代に伊勢山皇大神宮創建や横浜毎日新聞の創刊などの事業に関わった。明治4年(1871年)に宇和島県参事に任じられるが、赴任することなく同年のうちに名古屋県令に転じ、愛知県に改称後もそのまま県令に留まった。明治6年(1873年)に島根県権令に任ぜられ、翌年に県令に転じるが、明治9年(1876年)に退官して実業界に転じ、甲武鉄道発起人として東京-八王子間の鉄道敷設に尽力、また第二十国立銀行取締役、東京株式取引所肝煎頭取などを歴任した。人物写真の収集でも知られ、井関が所有していた勝海舟、近藤勇、木戸孝允、高杉晋作、岩倉具視、伊藤博文らの肖像など、幕末から明治中期にかけての古写真230葉が、東京都港区立港郷土資料館に収蔵されている。墓は東京の谷中霊園にある。
◆大野昌三郎
宇和島藩下級藩士。宇和島藩士・斎藤家の三男に生まれる。兄に斎藤丈蔵がいる。徒の大野家を継いだ。嘉永 4 年、分限帳に四人分(内一人分け足高)九俵と記載されている。 柔術にすぐれ、弘化2年、宇和島藩の武術大会に出場している。嘉永元年、高野長英が宇和島に来た時、谷依中・土居直三郎と共に蘭学を学ぶ。 嘉永 2 年、京都・大坂への遊学を命じられる。 長崎でオランダ通詞・森山栄之助にも学んだ。 嘉永 6 年、宇和島を訪れた大村益次郎にも学んだ。嘉永6年、村田蔵六(大村益次郎)が宇和島を訪れた際に、三瀬諸淵(別名は三瀬周三。シーボルト最後の弟子で、のち楠本イネの娘・楠本高子と結婚)とともに学んでいる。文久 3 年、脱藩(隠居)し、民間で蘭学研究に従事。 元治元年、楠本イネと楠本高子を伴って宇和島に帰郷している。慶応 3 年、独学で写真術を覚え、息子(大野悪鬼三郎・1862年生)を撮影。初期の今治吹上城の写真などが残る。明治 5 年頃、楠本イネから写真術を伝授されている。明治6年、小野義真(内務省土木頭)に招かれ、「準奏任御用掛、土木寮勤務、月俸百円」の辞令のもとに、蘭書翻訳に従事する厚遇新政府に出仕したが、間もなくして辞職し、宇和島に戻った。明治 13 年、死去。墓は宇和島の泰平寺。