【古写真の調査後売却】京都・二条城、お濠のある風景(鶏卵紙、台紙貼付)

江戸城か?写真師台紙鶏卵紙

◆二条城
京都市中京区二条通堀川西入二条城町(かつての山城国葛野郡)にある、江戸時代に造営された日本の城。正式名称は元離宮二条城(もとりきゅうにじょうじょう)。京都市街の中にある平城で、後述する足利氏・織田氏・豊臣氏・徳川氏によるものがあるが、現存する城は徳川氏によるものである。また、後の近代において二条城は京都府の府庁や皇室の離宮として使用された後、1939年(昭和14年)京都市に恩賜され現在に至る。城内全体が国の史跡に指定されている他、二の丸御殿(6棟)が国宝に、22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、二の丸御殿庭園が特別名勝に指定されている。さらに1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終わりの場所でもある。また、後の近代においては大正天皇即位の儀式である即位礼の饗宴場として使用された場所となった。慶応3年(1867年)9月:慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移す。10月には大政奉還、将軍職返上、12月には朝廷より辞官納地命令が二条城に伝達される。この時二条城には旗本を中心とする徳川氏直属の兵約5000、会津藩士約3000、桑名藩士約1500が集結しており、朝廷を操る薩摩藩の挑発に対し激昂していた。軍事衝突を避けるため、慶喜は二条城からこれらの兵を連れて大坂城へ向かう。二条城は若年寄永井尚志と水戸藩士約200名が守備のため残った。しかし命令系統の混乱から別に二条城守備の命を受けた新選組が到着し、水戸藩士との間で押し問答になる。この件は永井の機転で、新選組が伏見奉行の守備に回ることで解決した。慶応4年(1868年)1月:鳥羽・伏見の戦い。大坂に召還された尚志に代わり、二条城は水戸藩士・梅沢孫太郎が留守役となっていたが、1月5日(1月29日)に朝廷(新政府)の命を受けた議定・徳川慶勝に引き渡され、太政官が設置された。2月3日、明治天皇が初めて行幸し、白書院で幕府討伐の詔を発した事により新政府の新しい中央政庁として機能しかける。3月、明治天皇、太政官が再び行幸した。4月17日、本丸に仮皇居、二の丸に太政官を造営する案が命じられる。閏4月21日、太政官は宮中に移転した。明治3年(1870年) – 東京奠都後、二条城は留守官の管轄下に置かれる。明治4年(1871年) – 二の丸御殿は京都府庁舎となる。明治6年(1873年) – 陸軍省の所管に移される。明治17年(1884年)7月 – 宮内省の所管となり「二条離宮」となる。明治18年(1885年) – 京都府の新庁舎が完成し移転した後、二の丸御殿の修理が明治25年(1892年)まで行われる。

中島仰山
別名に中島鍬次郎、舟橋鍬次郎とも。旧姓は舟橋(船橋)。通称は鍬次郎。父は一橋家付け切りの船橋半右衛門。次男として生まれた。岡田鶴川に絵を学んでいたと思われる。 文久 2 年頃、開成所に学んだ。物産や写真の需要が増えたことに伴い、慶応 2 年、絵図調出役となる。慶応 3 年、歩兵差図役並勤方へ移動となり、後任に島霞谷が任命されている。この間、大坂に赴き、徳川慶喜の写真御用を務めたとされる。徳川慶喜将軍時代、彼の命で二条城内や二条城本丸などを撮影し、ナポレオン3世から贈られたフランス軍服を身に付けた慶喜像を撮影したという。明治維新前後、中島家(中島恭之助)に養子に入り、中島姓を名乗った。徳川慶喜に従い、上野大慈院、水戸弘道館、静岡宝台院、静岡紺屋町と移動し、二級侍従として勤め、同時に、徳川慶喜に油絵を教えた。 明治 5 年、東京へ移住。内務省博物館掛となる。明治 7 年、湯島聖堂大成殿での新古書画展に「油絵、人物・柳橋真果図」を出品。明治 15 年、第一回内国絵画共進会に第三区支那南北派として「孔雀」「月ニ蝙蝠」を出品。明治17年、『明治画家略伝』では、「浅草区西三筋町十六番地、岡田鶴川ノ門人タリ」と記載される。その後、静岡曲金の寺に住み、茶の湯や生花などを教えたという。大正3年、死去。