

◆三輪田真佐子
明治期の女子教育家。 津山藩の陽明学者・中條侍郎の養女。三輪田元綱の妻、宇田淵の娘。梁川星巌・同紅蘭に漢学・詩文を、高橋武之に和歌を学ぶ。伊予松山藩の儒学者の子・梅野として愛媛県に生まれる。馬路村 (京都府)の郷士に乞われ同村の私塾「典学舎」で教えていた養父・中條侍郎の代講を早くから務め、慶応2年岩倉具視の内殿侍講になり、明治2年愛媛松山出身の尊王派志士の三輪田元綱と宇田栗園の媒酌により結婚した。元綱歿後、師範学校教師を経て東京に出、日本女子大学設立に尽力し、また三輪田女学校を開く。贈従五位。著書に『女子の本文』『女子処世論』等がある。昭和2年(1927)歿、85才。天保14(1843)年 京都に生まれる。父が儒学者であったため、幼い頃から漢籍や古典に親しみ、12歳の時には、養父で儒学者の中条侍郎の家塾で、代講を勤めるほどであったという。この頃から梁川星厳・紅蘭夫妻に漢学・詩・書、高橋武之に和歌を学んだ。 慶応2(1866)年より岩倉具視の子女の教育にあたり、明治2(1869)年伊予松山藩士・三輪田元綱と結婚した。元綱は維新政府で要職を勤めたが、やがて官を辞して妻子と共に松山に戻り、明治12(1879)年に死去。夫の死後、眞佐子は身につけた学問を活かし、明治13(1880)年、松山城下で明倫学舎を開いて門下生を指導するとともに、松山藩の愛媛県師範学校で教師も務めた。愛媛県立師範学校などで教鞭をとるかたわら、塾生の育成に励んだ。のち1887年に上京し、神田に私塾・翠松学舎を開設し漢学を教える。その後、東京音楽学校の講師などをしながら、日本女子大学の創立に尽力して教授に就任、1902年に、私財を投じて麹町に三輪田女学校を開校、儒教を基本にしながら女子の役割は内助の功にあるとして、『女子教育論』『女子の本分』『新家庭訓』などの著作で良妻賢母教育を提唱した。長年にわたる女子教育に対する功労によって1912年に宝冠章、1927年に瑞宝章を受勲し、84歳で没する。三輪田学園中学校・高等学校(みわだがくえんちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、東京都千代田区九段北にある私立の女子中学校・高等学校(中高一貫校)。
◆写真師・江木松四郎(えぎまつしろう)
兄は江木保夫。父は頼山陽(歴史家、思想家、漢詩人、文人)の門人、備後福山藩の老中・阿部正弘の儒官・江木鰐水。 江木鰐水は福山藩士だったが、維新後に愛国社を結成。養蚕製糸、築港、塩田開発を計画した。 江木保夫は 5 男、江木松四郎は 6 男。長男から 3 男は若くして亡くなっており、4 男には明治 3 年以降複 数回の渡米経験のある江木高遠(官僚、外交官)がいる。 ただし、江木保夫は馬屋原氏の養子と表記があり、そのため、 江木保夫と 江木松四郎は同年の出生となっている。 同じ備後福山に儒者・馬屋原重帯の家系があるが、関係は不詳。 安政 3 年、江木保夫(5 月)、江木松四郎(11 月)生まれる。 江木保男は中江兆民の仏学塾で学んでいた。明治 8 年、司法省に入るが、その後は三井物産に在籍。まもなく商業に転じて貿易商をいとなむ。 明治11年、パリ万国博覧会に出向き、郵便報知新聞社に博覧会記事を寄稿している。明治 13 年、アメリカからソーラーカメラ、写真引伸器械を輸入、東京京橋区山城町三番地(銀座6丁目) に江木商店(江木写真店)を江木保夫、江木松四郎が共同で開店。 江木保夫が経営面、江木松四郎が技術面を担当したようである。 保男はオランダへ、松四郎はアメリカ(サンフランシスコ)へ留学し、写真術、業界事情について研究。 明治 14 年、江木松四郎は第二回内国勧業博覧会で受賞。 明治 15 年、江木松四郎は京都府博覧会で受賞。明治16年、 江木保夫 はアムステルダム国際植民地貿易博覧会に出向いて海外の商業事情を視察。明治 17 年、帰国後、神田淡路町に江木写真店を開店。 明治 23 年、内国勧業博覧会に出品して褒状を受けた。 明治 24 年、新橋丸屋町(銀座 8 丁目)の土橋北詰の牛肉店・黄川田(きかわだ)の土地を買い取り、六層塔の支店を設けた。 明治 24 年、技師には成田常吉(銀座支店)がいた。 明治 24 年、濃尾地震の惨状を撮影するために現地に写真家を派遣した。 明治 26 年、向島言問間に軽便写真場を組立て写客の求めに応じて撮影した。 写真業以外に油画、絹画、クレヨン画、インデアンインキン画、写真帖などを兼業した。 技師に工藤孝(神田江木本店)等が居る。 明治 31 年、江木保夫死去。 明治 32 年江木松四郎死去。 江木保夫の死後、 江木 松四郎 の妻・エツ子は 13 歳の息子・江木定男を抱えて銀座支店の経営に当たった。 神田本店は 江木 松四郎が受け継ぐが、翌年亡くなったため、息子 江木 善一が後を継ぐ。 江木定男(二代目)はやがて官吏(農商務省)の道を歩み、経営は母エツ子を中心に行われた。 技師長に中村利一も加わり、宮家・華族・財界などを顧客とし、繁盛するようになった。 江木写真店には大正 2 年(1913 年)、アメリカで写真術の修行をして帰国した五十嵐与七が入店。江木保夫の妻は、父・江木鰐水の門人で官僚の鶴田皓の娘・鶴田蝶子。