高橋 信三郎
耕珠堂の館名が残る。宮内庁に「明治29年・岩手県下海嘯被害地写真」が残されている。
開業地、主要拠点: 岩手(盛岡公園、盛岡市字内丸公園地)
関 政民
盛岡藩士。長崎で学び、帰郷した。明治3年に写した 第十四代藩主・南部利剛の写真原版が残っている。
邨上 **
不詳。 SEISAIDOUの台紙が残っている。
開業地、主要拠点: 岩手(陸中遠野)
白石 源助
不詳
開業地、主要拠点: 岩手(陸前)
田口 忠吉
父は南部領の役人で、紺屋町の豪商・惠島屋に奉公した初代・田口忠吉。明治元年、父が盛岡平町で独立し田口商会を開業し塩、たばこ、酒類などを販売した。二代目として、写真絵葉書類の販売をはじめた。大正15年には田口写真機店として写真機等の販売が主となり繁盛した。盛岡中学では石川啄木が一級上であり、短歌グループ「白羊会」に入り、同級生の小林茂雄や平野八兵衛らとともに親交があった。 昭和8年、盛岡天満宮に啄木歌碑がに建立。碑に刻む文字を、石川啄木の真筆から集字拡大を行うなど、写真技術を駆使したという。 その後は絵葉書屋「郷土詩社」を開業し、「啄木とふるさとシリーズ」なども販売した。
生年/出身: 1884 岩手(盛岡本町)
開業地、主要拠点: 岩手(盛岡平町)
末崎 仁平
明治 29 年、明治三陸地震(明治三陸大津波)で被災した鍬ヶ崎から光岸地方面を撮影。後日、焼き増したものを19枚のセットにして販売したという。
生年/出身: 岩手(大船渡)
開業地、主要拠点: 岩手(鍬ヶ崎)
木村 研
明治 30 年、田本研造から写真術を学ぶ。 その後東京で小川一真のもとで学ぶ。 明治 41 年、函館で田本写真館の経営に携わった。
生年/出身: 1881 岩手
開業地、主要拠点: 北海道(函館)
山屋 昌弐郎
不詳 。盛岡藩士に山屋姓があり、開業地に隣接しているが関係性は不詳。盛岡藩士の山屋氏は、現在の岩手県中央部に稗貫郡という郡があり、室町・戦国時代に稗貫氏という領主がいた。その支流・亀ヶ森氏(武士)を名乗っていた山屋家の先祖は稗貫家に仕え、主君・稗貫広忠(家法・重綱)の正室の身辺警護を担当していたという。和賀・稗貫一揆で稗貫家が没落し、正室は陸奥三戸に赴いて南部信直の側室となって稗貫御前と呼ばれるようになり、山屋家の先祖は稗貫御前に従い三戸で南部信直に100石で召抱えられた。当主・亀ヶ森喜明が陸奥九戸郡山屋村などを与えられたことによって、山屋三右衛門喜明に改めたという。のち江戸時代には盛岡藩士として存続。山屋喜明は盛岡蔵奉行、山屋治径は野田通代官、山屋林左衛門は雫石筏奉行、山屋龍治は徒頭、山屋健之助は南部丹波守家の家老を歴任。明治期には海軍大将・山屋他人が出ている。山屋他人の実家は、本家二代・山屋家明の次男・山屋勘右衛門が興した分家の直系。山屋勘右衛門の俸禄は石高ではなく、4駄2人扶持であった。山屋勘五郎の代に、藩士として最も低い2人扶持となり藩士としては最下級であった。与えられた役職は年間を通じて「お盆の数日間、寺の灯ろうの火の番をした」だけであったという。なお、山屋他人の曾孫は、皇后雅子様(小和田氏)である。 山屋他人の父は山屋勝寿(盛岡藩士)、母は新栄学院 女紅場を創設した「英学教育の祖」野辺地尚義の妹・野辺地ヤス。 長女・山屋ハツ子は海軍少将岩下保太郎に嫁ぐ。 五女・山屋寿々子はチッソ株式会社創業者・江頭豊に嫁ぐ。孫の江頭優美子(江頭豊の長女)は外交官・小和田恆(皇后雅子様の父)に嫁いだ。
開業地、主要拠点: 岩手(盛岡公園)
屋須 弘平
一関藩の蘭学者・屋須尚安の長男として生まれた。父は長崎で学んだという。父から蘭学を学び、青年期に医学、天文学、漢学、スペイン語、フランス語を身に付ける。文久3年、上京して漢学と医学を修めた。明治元年頃、勉学を中断して故郷(岩手県藤沢町)へ戻ろうとしたが、途中の二本松藩領内で藤沢の郷士たちと遭遇し、ともに戊辰戦争に奥羽越列藩同盟の軍医として参戦した。 やがて戦争が終わり、故郷へ戻り、江戸遊学中に亡くなった父親の後を継いで開業医となる。明治4年頃、ふたたび故郷を離れ、横浜に移住。横浜仏語伝習所でフランス人・エームリエから医学、天文学、フランス語を学んだという。明治6年、海外渡航免許を申請、許可されている。明治7年、この頃、日本が天文観測の適地(金星の太陽面通過)とされ、先進諸国から多数の観測隊が来日していた。その中のフランシスコ・ディアス・コバルヴィアスを隊長とする5名のメキシコ派遣隊に、通訳として雇われる。明治9年、フランシスコ・ディアス・コバルヴィアスにメキシコへの渡航を懇願し、同行を許可され、現地に入国した。メキシコ・シティのフランシスコ・ディアス・コバルヴィアスの邸宅から高等予備学校に通い、一般教養、絵画を学んだ。この頃、フランシスコ・ディアス・コバルヴィアスに伴って、メキシコのテハダ大統領に和装で謁見した。のち、フランシスコ・ディアス・コバルヴィアスがグァテマラ公使に任命されると、伴って グァテマラに移住した。写真に興味を持ち、公使館の前にあった写真館(ドイツ人、エミリオ・エルブルヘル)で働きながら写真術を学んだ。そのままグアテマラに移住し写真技術を身に付けた。明治13年頃、写真館「フォトグラフィア・ハポネス」を開業。当時のグァテマラ大統領フスト・ルフィーノ・バリオスなども撮影した。明治16年、キリスト教の洗礼を受け、ファン・ホセ・デ・ヘスス・ヤスと名乗る。明治22年、拡大していた写真館だったが、すべてを売却。帰国して横浜港に入港し、故郷の母を連れ上京。東京・築地で写真館を開いた。しかし明治22年、高橋是清が南米ペルーのアンデス地方での銀山開発計画事業を推進するための日秘鉱業株式会社を設立しており、高橋是清に誘われスペイン語通訳としてペルーに渡る。しかし、3か月で事業は停止した。ペルーからの帰路、グアテマラで1人下船し、再びグアテマラで写真館を開いた。明治24年、下宿していた家の娘(マリア・アングロ・ノリエガ)と結婚。明治28年、グアテマラの古都アンティグアに移住し移転。大正6年、アンティグアグアテマラで死去。昭和51年、アンティグア市で大地震が発生した際に、貴重な写真原板数百点が発見された。
生年/出身: 1846 岩手(一関市藤沢町)
開業年: 1880
開業地、主要拠点: 海外(グアテマラ)、東京(築地)