◆ 藤 蘭一郎
名古屋の蘭学者。別名は東蘭市、藤蘭一。幕末に写真を研究。味田孫兵衛からも学んでいる。「天保五甲醤家姓名録(御用懸瞥師)」によると、祖父・藤蘭宇は山脇東洋(丹波亀山出身の医学者 で実験医学先駆者の一人)の門人で、名古屋の町医であったという。藤蘭宇の子に藤左龍という名が残り、藤蘭一郎の父と思われる。藤左龍は父の藤蘭宇、小野蘭山、山脇東洋、賀川玄悦(近江国彦根出身の産科医で、胎児の正常胎位を発見した人物)に師事し、父の後を継いで名古屋で医師になった。古い資料に「藤蘭一郎は、藤蘭宇の孫」という記載がある。明治6年、佐藤三八が学んでいる。明治7年、名古屋で開業。明治43年、死去。墓地は名古屋茶屋町の東輪寺。
◆飯沼 慾斎
名は守之、のち長順。字は龍夫、幼名は本平。引退後の号は慾斎。 三重県亀山市西町の西村信左衛門守安の次男に生まれる。 父母ともに美濃大垣出身であったが、父母は亀山にいた弟・西村源兵衛守城方を頼って亀山青木門近くで 働いていた。 母方の親類である大垣の医師・飯沼長顕(叔父)に学び、さらに京都の福井丹後守に入門。 福井丹後守(福井榕亭)は、福井楓亭の長男で侍医、正四位上の人物。 飯沼長顕の嫡女・志保と結婚し、嗣子となった。 文政 11 年(12 とも)、弟子の浅野恒進と今村葬所(現大垣市本今町)で屍体の解剖を行っている。 文化元年、京都で本草学の大家・小野蘭山に入門。 文化 3 年、蘭方医・宇田川榛斎(宇田川玄真)に入門し蘭学を修める。 文化 12 年、大垣に戻り、再び医業に当たる。 天保 3 年、家業を義弟に譲り、自らは大垣長松に別荘「平林荘」を築き、研究・著述に没頭。 「リンネ」の植物分類法を最初に採用した『草木図説』を出版。70 歳を越えてから門人とともに写真術の 研究をはじめた。 慶応元年、死去。門弟に久世 治作 宇田川 興斎 宇田川 準一 宮津 賢次郎。
◆小野 蘭山
江戸時代の大本草学者。名は識博、通称は喜内、字は以文、号は蘭山、朽匏子。しばしば「日本のリンネ」と称される。京都出身。門弟に杉田玄白、木村兼葭堂、飯沼 慾斎、谷文晁、桜田欽斎、水谷豊文、三谷公器、狩谷棭斎、吉田立仙、山本盛備(大正年間の総理大臣山本権兵衛の養曽祖父)本姓は佐伯氏。名は職博。京都桜木町(上京区)で佐伯職茂(主殿大允、従四位伊勢守)の次男として生まれる。13歳の時から父の師であった松岡恕庵に本草学を学ぶ。非常に記憶力がよく一度聞いたことは一生忘れなかったという。ところが5年と経たず恕庵が死去、以後は独学で本草学を学ぶことになる。そんな中、蘭山は一つの壁に突き当たった。実はそれまでの本草学は中国から伝わった李時珍の著書『本草綱目』を元に作られたもので日本固有の動植物、鉱物などに適した形をもっていなかった。その事から、蘭山は積極的に山や森に分け入り日本の本草学作りを志した。通称は喜内、字は以文(いぶん)。25歳で京都丸太町に私塾・衆芳軒を開塾、多くの門人を教えた。蘭山が研究した本草学は広く知られる事になり日本中から生徒が集まり千人を越える人間が巣立って行ったと言われている。ただ、塾を去って郷里に戻った後も本草学を続けた者は10人に1人もいない、という(『水火魚禽考諸』)。しかし、郷里に戻った門人と蘭山との書簡が数多く残り、手紙で教えを請い続けた弟子もいたようだ。天明8年1月30日(1788年3月7日)、蘭山60歳の時、天明の大火が発生。私塾・衆芳軒も大火にやかれ蘭山も門人の吉田立仙の家に避難。この大火で門弟達は散り散りとなり、しばらくの暇ができた蘭山は、自身の研究をまとめる著作の執筆をして過ごした。寛政11年(1799年)71歳の時、幕命により江戸に移り医学校教授方となる。享和元年(1801年) – 文化2年(1805年)にかけて、諸国をめぐり植物の採集。享和3年(1803年)75歳の時に研究をまとめた著書『本草綱目啓蒙』脱稿。本草1882種を書き表す大著で3年にかけて全48巻が刊行され、日本最大の本草学書になった(この著書はのちにシーボルトが手に入れ、蘭山を「日本のリンネ」と賞賛している)。文化7年(1810年)1月27日死去。享年82。墓所は練馬区の迎接院。小野家の菩提寺である上京区の阿弥陀寺には墓はないものの、過去帖には記載されている。没後100年に当たる明治42年(1909年)従四位を贈位され、小石川植物園(東京大学大学院理学系研究科附属植物園)で「小野蘭山先生百年記念展覧会」が催された。平成22年(2009年)の没後200年記念でも各地で催し物が開かれ、京都府立植物園には「小野蘭山顕頌碑」が建てられている。