【古写真の調査後売却】「昭憲皇太后」の肖像(鶏卵紙、台紙貼付)

【古写真の調査後売却】内田九一撮影「昭憲皇太后」の肖像(鶏卵紙、台紙貼付)

明治 4 年、内田九一は、明治天皇、昭憲皇后、英照皇太后を撮影し盛名を得た。 明治21年、丸木利陽小川一真とともに明治天皇、昭憲皇太后を撮影。 
明治22年、岡本圭三は、宮内省御用掛として採用され、英照皇太后、昭憲皇后の肖像写真を撮るため皇居内に写真室を立てるよう進めて認められている。

昭憲皇太后は、日本の第122代天皇・明治天皇の皇后。諱は勝子(まさこ)、のちに美子(はるこ)。お印は若葉。旧名は、一条美子(いちじょう はるこ)。欧州の王侯貴族・貴婦人と対峙できるよう近代女子教育を振興し、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力した。皇后として史上初めて洋装をした。明治天皇崩御に伴い皇太后となり、1914年(大正3年)崩御(64歳)。嫡妻として明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大正天皇)を養子とした。生涯誕生から成婚、皇后時代嘉永2年(1849年)4月17日、従一位左大臣・一条忠香の三女として誕生。生母は側室の新畑民子[注釈 1]。右大臣・一条実良(1835-1868年)の妹。徳川慶喜の婚約者であった千代君、疱瘡のため千代君に代わって慶喜に嫁いだ美賀子[注釈 3]とは、義理の姉妹にあたる。当初の名前は勝子(まさこ)。通称は富貴君(ふきぎみ)、富美君(ふみぎみ)など。安政5年(1858年)6月、皇女富貴宮の諱を避けるため、寿栄君(すえぎみ)と改名した。慶応3年6月28日(1867年7月29日)、新帝明治天皇(第122代天皇)の女御に治定。伏見宮家の縁故で、女流漢学者で勤王論者の若江薫子が家庭教師として忠香の娘たちの養育に携わっていたが、「女御を一条家から出すのに際し、薫子は姉を差し置いて妹の寿栄君を推薦した」と言われている。明治元年12月26日(1869年2月7日)、美子(はるこ)と改名し、従三位に叙位。同月28日(1869年2月9日)入内して次のような女御の宣下を蒙り、即日、皇后に立てられた。