上野 文七郎(うえの ぶんしちろう)
宇都宮上野家は、屋号を『油松』といい、代々油屋松次郎の名で業務を急拡大させた家柄。上野文七郎は分家で、薬種商・唐物商としてガラスや洋酒等の舶来品の販売を手がけ、のち写真師となった。別名は上埜文七郎。「写真館上埜」の館名が残っている。明治12年、米国のグラント元大統領一行が日光を訪れた際、伊藤博文、西郷従道ら政府高官との記念撮影をしている。明治16年10月より明治17年まで栃木県令・三島通庸の御用写真師として栃木地方の公的な写真を撮影している。なお、三島通庸は明治9年から明治15年まで山形県令であり、その際は菊池新学を山形の御用写真師として任命している。明治17年、栃木県庁を撮影。この写真が洋画家・高橋由一(明治 9 年、菊池新学は山形県下の近代化促進事業を画家の高橋由一と共に記録する仕事を始めている。)が描いた県庁の元となった。明治31年、死去。上野氏の祖先は越後の出身という。宝暦7年の越後は2度の飢饉に見舞われ、多くの越後人が郷里を捨て下野国に流れてきた。上野家も同じく、明和5年に宇都宮材木町六道で家を興した。上野文七郎は初代・上野松次郎の子と思われる。創業者・上野新兵衛(延享3年~文化8年、上野吉右衛門とも)は、宇都宮材木町六道で家を興した。初代・上野松次郎(天明8年~安政2年、幼名:上野武房)は、上野新兵衛の長男で、家業の製油業に専念し、屋号を『油松(材木町油屋松次郎)』とした。商いは急拡大し、手狭となった土地家屋を現在の本家がある本郷町へ移転。2代目・上野松次郎(文政10年~安政2年)は、初代・上野松次郎の長男で、家業に専念していたが、父の死後4か月にして没した。3代目・上野松次郎(天保5年~大正6年、幼名:上野栄次郎)は、初代・上野松次郎の次男で、兄の死後、兄の妻(てつ)と結婚し商いを拡大させ、宇都宮金満家番付に名を連ねるまでになった。4代目・上野松次郎(嘉永元年~大正8年、幼名:上野もと)は、2代目・上野松次郎の長女で、明治10年に養父(3代目・上野松次郎)から家督を相続した。実質の経営は3代目が行っていたという。5代目・上野松次郎(万延元年~昭和14年、幼名:上野豊次郎)は、4代目・上野松次郎の長女(上野タミ)と結婚し婿養子となる。千葉県銚子市に鵜月家の出身という。宇都宮市議会議長、宇都宮商工会議所初代会頭、下野中央銀行頭取など複数の要職を務めた。6代目・上野松次郎(明治20年~昭和29年、幼名:上野順一)は、5代目・上野松次郎の長男。父同様に要職を務め、貴族院議員にもなっている。7代目・上野俊三(明治34年~昭和63年)へと家業は続いた。
酒井 覺醉(さかい かくすい)
兵庫県士族。幼名は酒井金三郎、号は酒井大斗。酒井覚酔とも表記される。父は明石松平家の家臣(明石藩士)・酒井黙晴。長子として生まれる。 明治6年、父に従い上京。芝の攻玉社に入り普通学を学ぶ。二見朝隈に写真術を学び、高橋由一に洋画を学ぶ。明治初年、東京芝で「竹香堂」を開業。明治23年、東京芝御成門外に写真館を新築。朝野新聞に掲載した洋風挿画は、わが国初の新聞洋風画挿画とされる。洋画の素養を応用して、濕版法乾版(瞬間写真)、不変色写真などの技術の研究に尽力。
菊池 新学(きくち しんがく)
本名は菊池常吉。長男。 出家後は菊池宥全と称し、菊池新学という名は、僧侶から写真師になった後に名乗った。写真師・照井泰四郎は弟。 江戸に出た父・菊池常右衛門が江戸で写真術を身に付け、送ってきた写真機材や自分自身が写った写真等を見て写真師を志す。 母の名は菊池そえ。慶応 3 年、江戸に出て、 父とともに 写真師・行方敬馬に入門し写真術を学ぶ。のち機材や薬品などを購入し帰郷。慶應3年、山形旅篭町の本陣・小清水庄蔵で露天写真業を始めた。明治元年、山形市七日町(現山形銀行角)に山形初の写真館を開く。 明治 8 年、技量を磨くために上京。横山松三郎に写真術を学び、清水東谷にも師事。 明治 9 年、山形県下の近代化促進事業を画家の高橋由一と共に記録する仕事を始めた。
なお、高橋由一の「油彩山形市街図」は菊地新学が建築や道路を撮影して献納した写真をもとに描かれたと考えられている。明治 11 年、白崎民治、菊池新学 、菊池宥清は、上京して二見朝隈に師事している。二見朝隈が主宰する「写真新報」の東北地方の売りさばき場として、白崎写真館、菊池写真館が指定されている。明治 13 年頃、白崎民治は酒田港町で開業したが、この頃、先に開業していた菊池新学は、撮影がうまくいかないことがあったようで、白崎民治の写真館まで通い技術指導を受けていたという。明治 13 年、山形県令三島通庸から御用写真師に任ぜられる。なお、三島通庸は明治16年10月より明治17年まで栃木県令であり、その際は上野文七郎を栃木の御用写真師として任命している。明治30年頃より、仏道を志すようになった。若松寺如法堂の住職となり、のち、権少僧都の位を請ける。 明治33年、父・菊池常右衛門が死去し、京都比叡山延暦寺に修行へ出向く。山形市千歳公園内に「奥羽写真業祖新学壽蔵碑」がある。 孫・菊池学治(東陽)は、オリエンタル写真工業株式会社を設立する。 大正4年、死去。
池田 亀太郎(いけだ かめたろう)
父は浜町の荒物屋・池田亀蔵。長男として生まれる。東京で写真術とクリーニング術を学ぶ。当初は肖像画を描くために写真術を学んだが、写真を本業として地元に戻り写真館を開業。のち息子の池田正吉が継いだ。写真をもとに肖像画の制作も行った。明治 17 年、画家・高橋由一が酒田に逗留した際に接触があったと思われ、作風が類似した鮭の絵を残し ている。大正14年死去。末弟(六男)の池田亀三郎は、石油化学工業協会会長などを歴任した実業家。なお、同姓同名の出歯亀事件の犯人とされた人物がいるが、無関係。
横山 松三郎(よこやま まつさぶろう)
別名は横山文六(三代)。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、国後島・択捉島間の航路を開拓した豪商の廻船商人・高田屋嘉兵衛および高田屋金兵衛に仕え、冬期以外は箱館から択捉島に出向き、漁場を管理(支配人)していた。 天保 4 年、高田屋が闕所処分を受ける。祖父・横山文六(初代)と父・横山文六(二代)は、その後も松前藩の場所請負人制となり択捉島で引き続き支配人を務めた。 嘉永元年、父が亡くなり、家族とともに箱館に帰る。 嘉永 5 年、箱館の呉服屋で奉公する。 画を好み、葛飾北斎の漫画を写していたという。 嘉永 7 年、ペリーの米艦隊が箱館に上陸したときに、写真を知る。 安政 2 年、商店を開いた。安政3年、箱館に「諸術調所」という洋式学問所を開設し、横山松三郎は諸術調所で武田斐三郎から薬品の調合を学んでいた。 武田斐三郎は宮下欽の縁者である牧野毅と強く関わっている人物。安政 4 年、病気のため商店を閉店。この頃、写真機の製作を試みる。 安政 6 年、箱館が自由貿易港となり、米国人・露国人・英国人が住むようになると、彼らから洋画・写真術を学んだ。 ロシア領事ヨシフ・ゴシケヴィッチから昆虫の実写画を頼まれ、その代わりに写真術を学んだ。 文久元年、函館のロシア領事館の神父・ニコライ(日本に正教を伝道した大主教。日本正教会の創建者)を通じて、ロシア人通信員レーマンの助手となり、洋画を学ぶ。 文久 2 年、海外で写真を学ぼうと、箱館奉行所の香港・バタヴィア行貿易船「健順丸」に商品掛手附とし て乗り込む。しかし、品川港で渡航中止となってしまった。 元治元年、上海へ渡航が叶う。欧米の洋画・写真を見聞した。 帰国後、横浜で 下岡蓮杖に印画法を教わる。 のち箱館に戻った。 慶応元年、再び上京し下岡蓮杖に写真と石版術を教わる。 慶応元年、箱館に戻り、木津幸吉・田本研造に印画法を教えた。 明治元年、下岡蓮杖に再び石版印刷を学んだ後、江戸両国元坊に写真館を開く。 明治元年、上野池之端に移転し、館名を「通天楼」とした。「通天楼」は、写真館兼私塾であったという。明治元年頃、中島待乳は横山松三郎に師事し、修正術・採光法を学んだ。 なお、待乳の号は横山松三郎が浅草名勝待乳山に因んで付けたとされる。 明治元年、宮下欽が学んでいる。 宮下欽は門人として技術を磨いていただけでなく、「通天楼」の経営面にも奔走していたという。明治 3 年(2 年とも)、門人たちと共に日光山に赴き、中禅寺湖や華厳滝、日光東照宮などを撮影。 片岡如松は日光山撮影に訪れた横山松三郎に同行し、写真術を習う。岩の上で帽子を振る横山松三郎の様子を撮影している。 横山松三郎の「松」の字をとり、片岡久米から片岡如松と改める。 明治 4 年、蜷川式胤(外務省官僚)の依頼で、内田九一と共に荒れた江戸城を撮影。 明治 5 年、蜷川式胤により『旧江戸城写真帖』計 64 枚に編集。洋画家・高橋由一によって彩色された。 明治 6 年、通天楼に洋画塾を併設。亀井至一や亀井竹二郎、本田忠保などの画家を育てた。 明治 7 年、漆紙写真と光沢写真を作った。 明治 7 年、成田常吉が学んでいる。 明治 8 年、菊地新学が学んでいる。 明治 8 年頃、山田境が学んでいる。 明治 9 年、織田信貞に通天楼を譲渡して、陸軍士官学校教官となる。 フランス人教官アベル・ゲリノーから石版法や墨写真法などを教わる。 明治 11 年、士官学校の軽気球から日本初の空中写真を撮影。 明治 13 年頃、「写真油絵法」を完成させる。 明治 13 年、田中美代治が学んでいる。 明治 14 年、陸軍士官学校を辞し、『写真石版社』を銀座に開く。 明治 17 年、市谷亀岡八幡宮社内の隠居所にて死去。墓地は函館の高龍寺。 明治 18 年、写真油絵技法は弟子の小豆澤亮一に継承された。 弟・横山松蔵は北海道で写真師となっている。 妻は紙半旅館(栃木日光下鉢石町)の主人・福田半兵衛の長女・ 蝶(ちょう)。甥の慶次郎(松三郎の妹・千代の息子)はのち養子に迎え、「横山慶」と改名。明治8年の東京名士番付『大家八人揃』(東花堂)に「清水東谷、横山松三郎、内田九一、守山(森山)浄夢、加藤正吉、北丹羽(北庭)筑波、小林玄洞」の名がある。
川上 冬崖(かわかみ とうがい)
画屋を無辺春色画屋と称す。諱は寛、幼名は斧松、字は子栗、通称は万之丞。 山岸瀬左衛門の末子として生まれる。母の実家である墨坂神社宮司方から須坂藩藩校立政館に学ぶ。弘化元年、江戸に出て上野寛永寺東叡院の小従となり、出入していた円山四条派の絵師大西椿年に写生画 を学んだ。嘉永 4 年、幕府御家人株を購入、御家人・川上仙之助の養子となり、以後川上姓を名乗る。幕臣となり蕃書調所へ出仕。 安政 3 年頃、蕃書調所へ入り、翌年絵図調出役となり西洋画法研究を始める。 文久元年、同所画学局設置により画学出役となり、高橋由一らを指導。慶応元年、將軍徳川家茂に従って上京、技術者として製図・写真撮影に従事。 明治維新後、陸軍士官学校などで教えた。明治 2 年、下谷御徒町の屋敷内に画塾「聴香読画館」を開く。小山正太郎、松岡寿、印藤(千葉)真盾、川村清雄、中丸精十郎、松井昇、浦井韶三郎らを指導。明治 4 年、『西画指南』を刊行。 後に写真師・中島待乳の妻となる秋尾園は、 明治6年、父(秋尾利義、沼田藩士)が陸軍士官学校で馬術を教えていた頃の同僚に洋画家の川上冬崖・小山正太郎がおり、この時期に洋画を知ったと思われる。明治7年、習画帳『写景法範』を刊行。明治 9 年、明治天皇の北海道行幸に随行して、2 点の油画を制作献納。明治 10 年、第一回内国勧業博覧会では美術部の審査主任を務めた。明治 14 年、第二回内国勧業博覧会でも審査官を務めたが、熱海で自殺。 部下の起こした清公使館への地図密売事件の責任を取ったとされるが、詳細は不明。