【古写真関連資料】警察官、巡査などから写真師になった、幕末明治の写真師たち

清水 義路(しみず よしじ)

武家出身という。明治に入り、横浜で警察(巡査)となり、のち小田原で写真師となる。明治41年死去。

田嶋 貞行(たじま さだゆき)

田嶋貞行、田島貞之、田嶋貞之の表記もある。はじめ神戸に出て、明治10年、横浜に移り住み、巡査となる。明治16年辞職。のち写真師に転職し勧業館内に写真館を出店。明治24年、横浜松ヶ枝町66に写真館「楽文館(幾文館とも)」を開店。大火に遭い松ヶ枝町15に移転。ブロマイド写真と夜間撮影が評判となった。

河口 説貞(かわぐち **)

父の岡山藩士を継いで、15 歳で京都御所警備をする。 明治 3 年、東京府の巡査。 明治 5 年、岡山小学校教員。 明治 29 年、高松で護衛の職を辞任し、大阪の中村基次に写真術を学ぶ。 明治 29 年、大阪古川橋近くで開業。 その後九条通に移転し、古川橋は門人に譲った。 大正 10 年、死去。

工藤 利三郎(くどう りさぶろう)

別名は工藤精華。父は工藤瀧蔵。母は工藤シン。藤原南家の流れを汲む工藤滝口祐継の嫡男・工藤祐経の末裔という。安政6年頃、東京で島田篁村に漢学、陽明学、朱子学を学んだ。東京で警察に就職後、川路利良(のちに日本警察の父と呼ばれる官僚)の下で西南戦争に従軍。戦後、明治6年時点では赤坂裏一丁目八番に在住。横山松三郎から写真術を学んだ。明治10年、徳島の藍商・坂東家の東京支店に勤務。 明治11年、古画鑑賞会に加わり、写真班として古書画の撮影に従事して、ここでも写真術を学ぶ。日本の古画、美術品が盗まれ、外国人に売り飛ばされている現状を知り、文化財を写真に記録しようと志す。 明治 16 年頃、帰郷し、徳島にて営業写真館を開業。徳島では近隣に5店の写真館が競合しており、営業不振であったという。明治 26 年、奈良猿沢池東畔に移住し、古美術・古建築専門の写真館「工藤精華苑」を開業。法隆寺の学僧の佐伯定胤との交流をきっかけに、古社寺保存法の施行による寺社建築や仏像等の証明写真、奈良帝室博物館の開館によるおみやげ写真等の需要が増えた。同郷の歴史学者・喜田貞吉や、岡倉天心などと親交があった。 明治 41 年、大正 15 年までかけて大型写真集『日本精華』(11巻)を小川一真のコロタイプ印刷にて出版。 日本美術の普及に貢献し、古美術写真家として評価を得た。 昭和 4 年、奈良にて死去。 没後、ガラス原版の一部が奈良市に引き取られ、現在は写真家・入江泰吉(上田貞治郎の門人)の「入江泰吉記念奈良市写真美術館」に保存され国の有形文化財に指定されている。

小川 一真(おがわ かずまさ)

本名は原田朝之助。武蔵国忍藩藩士・原田庄左衛門(原田梅逸、原田西念とも)の次男として生まれる。三兄弟の二男で、長男の原田庄左衛門(原田清太郎、原田大観とも)は出版社「原田博文堂」を創業。三男は写真技術者・印刷技術者の小林忠治郎(旧姓・原田徳三郎)。 忍藩・培根堂で学んでいる。文久3年、武蔵国行田藩士・小川石太郎の養子となる。この頃から小川一眞と名乗っている。明治 6 年、藩主・松平忠敬の給費で東京の有馬学校に入り土木工学と英語学を修める。 この頃、写真術に興味を持ったという。 明治8年、有馬学校を卒業して帰郷。明治8年、熊谷の写真師・吉原秀雄の下で働きながら写真湿板撮影法を学ぶ。明治8年(10年とも)、上州富岡町で「小川写真館」開業。この頃、古沢福吉(富岡町初代郵便局長)と親交があり支援を受けている。明治13年、築地のバラー学校へ入学し、英語を習得。明治14年、横浜の外国人居留地で警察の通詞を勤める。明治14年、富岡町の写真館を閉じ、横浜の下岡太郎次郎下岡蓮杖の弟子で養子)に写真術を学んでいる。明治14年、第2回内国勧業博覧会に出品したが評価されなかったという。明治15年、横浜居留地の警護をしていた親類に薦められ、アメリカ軍艦に乗船し、単身渡米。旧岸和田藩主・岡部長職の知遇もあったと伝わる。最新の写真術を会得するべくアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンのハウスティング写真館に住み込みで働く。また、欧州の最新写真技術やコロタイプ印刷などを体得している。明治17年(18年とも)帰国。明治 18 年、東京府麹町区飯田町四丁目一番地に「玉潤会(玉潤館)」を設立。カーボン印画法の材料を販売する会社も起こしている。 明治 19 年頃、中西應策が門人となっている。 明治 20 年、内務省の委嘱で皆既日食のコロナ撮影を行う。 なおこの日食は水戸市内での3人の写真師(宇佐美竹城松本謙吾松本信夫)が撮影している。 明治 21 年、丸木利陽小川一真とともに明治天皇、昭憲皇太后を撮影。明治 21 年、枢密院顧問官で男爵、図書頭の九鬼隆一による近畿地方の古美術文化財調査に同行。 奈良の文化財の調査撮影を行った。 のち岡倉天心らと国華社を設立。 明治 22 年、日本初のコロタイプ印刷工場「小川写真製版所」を京橋区日吉町に設立。また、コロタイプ印刷による図版入りの美術雑誌『国華』を創刊。 明治 24 年、光村利藻は、小川一真に伝授料 200 円を支払って最新のコロタイプ印刷をマスターし、光村印刷(東証 1 部上場)の基礎を築いた。 明治24年、浅草凌雲閣が開催した「百美人」コンテストを撮影。明治 26 年、シカゴ万国博覧会にあわせて開かれた万国写真公会に商議員として参加し、渡米。 網目版印刷の存在を知り、アメリカで印刷機械や器具、印刷材料一式を購入して帰国。 明治 27 年、網目版印刷業を開始。 日清戦争で東京朝日新聞の附録や博文館発行の『日清戦争実記』などの写真図版を手がけ、日露戦争で『日 露戦役写真帖』など数多くの写真帖を出版。明治35年から明治40年にかけて、渡邊銀行創立者の一族・渡邊四郎、実業家の岩崎輝弥(岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助の子)は、小川一真に依頼して北海道から九州まで、全国各地で多くの鉄道写真を撮影した。これらの写真は現在、さいたま市にある鉄道博物館に所蔵された。明治 36 年、板垣退助の三女、 板垣婉と結婚。二人の妻に先立たれており、3人目の妻であった。なお、 板垣婉(小川婉)は、明治5年生で、母は板垣清子。初め板垣猿という名で、のち婉(婉子)と改め、安川甚一に嫁いだが離縁し、のち小川一真に嫁いだ。明治 39 年、勲五等双光旭日章を受章。明治 43 年、写真師として初の帝室技芸員を拝命。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、写真文化に大きな業績を残した。東京芝白金の前島英男(丸木利陽門下)とともに宮内省写真部を設立。大正2年、小川写真化学研究所を創設。大正4年、神奈川県平塚市で死去。従六位。