【古写真の調査後売却】佐賀藩武雄領(武雄市武雄町)の最古級写真(写真師王家。鶏卵紙、台紙貼付)

【古写真の調査後売却】佐賀藩武雄領(武雄市武雄町)の最古級写真(写真師王家。鶏卵紙、台紙貼付)

◆写真師 王家**

◆佐賀藩武雄領
肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩ともいう。鍋島家が藩主であったことから鍋島藩と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)に置いた。藩主ははじめ龍造寺家、後に鍋島家。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。佐賀藩は35万7千石の大封でありながらその実情は、3支藩(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)と龍造寺4分家(多久、武雄、諫早、須古)の各自治領があったため、藩主の実質知行高は6万石程度であった。龍造寺家の支配体制を引き継いだため、龍造寺一族の所領もそのまま安堵する必要があったのである。このため、幕府への普請役への出費などを理由に、家臣の領地3割を返上させる「三部上地」を2度(慶長16年(1611年)、元和7年(1621年))実施し、直轄領拡大を行っている。1度目は全家臣、2度目は龍造寺4分家が対象となった。龍造寺4分家に差し出させた知行を支藩に割り当てたり、龍造寺4分家に養子を送り込むなどして、徐々に藩全体の鍋島化を図っていった。明治維新を推進させた人物を輩出した藩を指す薩長土肥に数えられ、副島種臣、江藤新平、大隈重信、大木喬任、佐野常民らが活躍した。また田中久重等、他藩の有能な人材を積極的に重用し、日本の近代化に貢献した。だが、江藤新平と島義勇は明治7年(1874年)に佐賀の乱を起こし処刑されている。明治4年(1871年)、廃藩置県により佐賀県となった。藩主の鍋島家は明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)の華族令で侯爵に叙せられた。

◆武雄町
佐賀県杵島郡にあった町。1889年(明治22年)4月1日 – 町村制の施行により、杵島郡武雄村[柄崎・下西山および竹下・北ノ浦の各一部]、富岡村[富岡・八並]が合併して町制施行し、武雄町が発足。1900年(明治33年)6月7日 – 杵島郡武雄村を編入。1954年(昭和29年)4月1日 – 杵島郡朝日村、武内村、橘村、東川登村、西川登村、若木村と合併して武雄市を新設して消滅。