

◆小山松吉
日本の法学者、司法官僚、政治家。学位は法学博士。検事総長、司法大臣、貴族院勅選議員、法政大学総長を歴任。茨城県出身者では初の国務大臣である。水戸藩士の家庭に生まれる。旧姓は高瀬。獨逸学協会学校(現在の獨協大学)専修科を卒業し、法曹会雑誌編集委員、大審院検事などを経て1924年(大正13年)に検事総長となり、1932年(昭和7年)に司法大臣に就任するまでの8年間これを勤めた。司法大臣退任を目前に控えた1934年(昭和9年)7月3日には貴族院勅選議員に勅任され、これを貴族院廃止までつとめている。また同じ年には小山の収賄行為を証言した者が逆に偽証罪で有罪となったいわゆる「お鯉事件」が起きている。小山は初期の社会主義運動取締りの指揮にあたった。東京控訴院検事時代には捜査主任として小原直や武富済らと大逆事件の第一線に立ち、大規模テロ事件の全貌解明と再発防止に貢献した。ただし幇助犯の幸徳秋水についてはこれを担当していない。大逆事件の公判時には担当検事として社会主義者の多くから憎しみを買い、自宅に硫酸の入った瓶を投げつけられるに至って警官に門前を警備させざるを得なくなっている。検事総長在職中に起きた京都学連事件では、林頼三郎司法次官、各控訴院検事長、各府県特別高等警察(特高)課長らと協議した上で、私有財産制度の否認を理由とした治安維持法の初めての適用に関わった。また特高に対しては拷問を禁止する一般的指示権を発動、それ以後は特高による拷問が激減した。司法官として小山は、無差別テロ・軍事クーデター・高官汚職のいずれに対しても厳しい姿勢をとった。人脈的には平沼騏一郎 鈴木喜三郎 小山と連なりさらに塩野季彦へと続く、いわゆる思想検事系列を形成立していったとみられている。司法大臣のときは中国との戦争に反対、このことから荒木貞夫陸軍大臣と対立した時期があった。この時期に神兵隊事件の公判を指揮している。帝人事件では特に捜査を止めなかった。1934年(昭和9年)には急死した水町袈裟六に替わり法政大学総長に就任、野上豊一郎と森田草平の対立に端を発した学内紛争(いわゆる法政騒動)を収拾した。この頃には荒木陸相との関係を修復して学内に招聘している。法政大学総長として東京六大学野球を熱心に支援したのも小山である。1936年(昭和11年)にはやはり急死した獨逸学協会中学校の司馬亨太郎に替わって校長に就任し、1946年1月まで務めた。
◆鍋島 直縄
日本の政治家、実業家、華族。1889年に鍋島直大の四男(二男とも)として生まれ、1897年に子爵鍋島直彬の養子となる。1908年に東京府立第一中学校(旧制。現・東京都立日比谷高等学校)を卒業し東京外国語学校の独逸語本科に入学。1911年に同校を卒業するとドイツ帝国に留学した。ベルリンを経てドレスデンに移り、1912年10月6日にザクセン王立ターラント林科大学(現・ ドレスデン工科大学)の林学科に入学した。林学や植物学を学んで1914年3月に修了証書を受け取り、続いてミュンヘン大学の林学科で研究を行なっている。日独戦争開戦前の同年8月12日にロンドンに移り、数か月間滞在した後にアメリカを経て12月24日に帰国した。佐賀百六銀行の頭取を務めた。また、1915年に養父・直彬が亡くなると子爵になり、1925年に貴族院議員に選ばれている。1929年に司法大臣秘書官となり、1931年に発足した第2次若槻内閣から犬養内閣で海軍参与官、1936年の廣田内閣から林内閣では内務政務次官を務めた。1937年には貴族院慰問団として定州に派遣されている。1939年4月29日に東京府渋谷区代々木上原の自宅で黄疸のため亡くなり、長男の鍋島直紹が家督を継いだ。
◆塩野季彦
日本の司法官僚、政治家。司法大臣である。思想検事の主流派として活動し、「塩野閥」などと言われた検察内の主流派閥を形容していったことで知られている。東京府神田区(現在の東京都千代田区)に司法省官吏で旧松代藩士の山寺信炳の三男として生まれるが、父の病死により叔父にあたる塩野宜健の養子となった。養父は東京地裁検事局検事正だった。松代の山寺家は藩の郡奉行や寺社奉行を務める、謂わば「司法の家系」であった。番町小から一中、一高を経て、明治39年(1906年)7月に東京帝国大学法科大学法律学科(独法科)卒業。同年、司法官試補。静岡地裁予備検事から大阪区裁判所検事、東京区裁判所・東京地裁検事を経て、大正11年(1922年)に東京地裁専任次席検事に。以後、司法省参事官から東京控訴院次席検事、東京地裁検事局検事正に就任、同局次席検事に松阪広政が就いた。この頃、東京地裁検事局に「思想専門」(通称・思想部)を設けた。さらに昭和5年(1930年)に司法省行刑局長、昭和9年(1934年)名古屋控訴院検事長、昭和11年(1936年)12月、大審院検事局次長(後の次長検事)就任。昭和12年(1937年)2月から昭和14年(1939年)8月にかけて、林内閣・第一次近衛内閣・平沼内閣の司法大臣就任、昭和14年(1939年)1月から4月の間逓信大臣を兼務。戦前にかけて、俗に司法・検察人事では平沼騏一郎、鈴木喜三郎らの流れを汲み、初期の社会主義運動、大逆事件の指揮にあたった小山松吉らを経てのち、思想検事は「塩野閥」が主流とされ、刑事警察を常道とすべきとする小原直らの「小原派」と対立関係にあったが、小原派は超弱小派閥ゆえ問題とならなかった。三・一五事件などで実質的指揮をとった松阪広政、思想検察を確立した池田克、戦後でも経済検事の流れを汲む馬場義続と対立関係にあった岸本義広、井本台吉らに辿れる。師匠にあたる小林芳郎や、武富済、小原直らは葉隠の思想の体現者のごとく、政治家が今にいなくなり、政府がじきに成り立たなくなるとの批判が出るまで政治汚職追及に厳しかった。塩野らの拠って立つ「国家有用論」はいわば清濁併せ呑む融通性をもって古くは桂太郎、そして平沼騏一郎の支持を取り付け、一大派閥を形成した。他方で検察首脳の裁量やさじ加減により国家有為かで政治家や官僚の選別、政治犯の選別が起訴・予審段階で成され、「検察ファッショ」につながるとの批判もあった。だが、一方では受刑者の社会復帰を重視し、日本の行刑の近代化・刑務所の待遇改善に貢献。こうした事績や人に慕われる性格もあったことから、検事のみならず受刑者からも慕われることもあったという。係わった事件には、シーメンス事件、三・一五事件、四・一六事件、東京市会疑獄事件などがある。三・一五事件では私有財産否定を要綱に掲げる秘密結社共産党に戦後に至るまで再起できない程の壊滅的打撃を与え、さらに、司法省行刑局長から司法大臣時代に関わった帝人事件では影の主役ともいわれている。司法大臣の地位に長くあったが、昭和14年(1939年)8月に下野、日本法理研究会を主宰し、忠君愛国への戦時司法体制づくりに積極的に関わっていくこととなる。戦後、昭和20年(1945年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し塩野を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)。 昭和21年(1946年)8月にかけて、A級戦犯容疑にて巣鴨プリズンに収容された。公職追放となり、追放中の昭和24年(1949年)1月死去。息子の塩野宜慶(やすよし)は、東京高検検事長・法務事務次官を経て最高裁判所判事を務めた。孫の健彦(中大法卒)は、最高検検事、福島地検検事正等を務めた。
◆小原 直
日本の検察官、政治家、弁護士。岡田内閣、阿部内閣、第5次吉田内閣で司法大臣・法務大臣などの閣僚を務める。新潟県長岡市出身。新潟県古志郡長岡弓町(長岡本町、長岡町を経て現:長岡市)に、旧長岡藩士田中敬次郎の三男として生まれる。その後、長岡裁判所検事・元会津藩士小原朝忠の養子となり「小原」姓を名乗る。新潟県第七中学区公立第一番小学校(現:長岡市立阪之上小学校)、旧制:新潟県立長岡中学校(現:新潟県立長岡高等学校)から、麹町区永田町の橋本圭三郎宅の書生となり共立学校四年級に編入。旧制第一高等学校では松平恒雄(宮内大臣、初代参議院議長)、長島隆二(大蔵省理財局長心得、政友会代議士、桂太郎総理の娘婿)らと同級であった。1902年(明治35年)東京帝国大学法科大学法律学科を卒業し、同年7月に司法省採用となり、東京地方裁判所判事に任用される。当時の上司倉富勇三郎から見込まれ、千葉地方裁判所検事として赴任。以後、検事の道を進む。小原は、検察官在任中に東京地裁検事局検事正 小林芳郎の下で、南谷知悌、古賀行倫、武富済、小山松吉、大田黒英記らと日本製糖汚職事件(日糖事件)で家宅捜索と贈収賄者の取調べを担当した。日糖事件の取調べ段階で発覚したものの桂太郎総理より本件捜査の見合わせを余儀なくされた内外石油事件では、小原、武富で事件担当となった。幸徳事件、シーメンス事件、大浦事件、八幡製鉄所汚職事件、朴烈事件などを担当、特に、幸徳事件では宮下太吉と管野スガの取り調べを担当した。また、シーメンス事件では主任検事を担当した。田中義一内閣の原嘉道司法大臣の下で司法次官に抜擢され、以後、濱口・犬養・斎藤内閣の司法次官を務める。また、この時期に各省次官合同会議で外務次官であった吉田茂と親交を結び、戦後死去するまで交友関係が続いた。岡田内閣の司法大臣在任中、帝人事件、天皇機関説事件、二・二六事件が起き、特に、二・二六事件では、総理秘書官・迫水久常から、反乱軍に殺害されたとされていた岡田啓介総理の生存がいち早く伝えられ、その事実が確認されると、岡田の参内を強く主張し、不敬を理由に反対する他の一部閣僚の反対を押し切った。しかし、次期広田内閣では留任が望まれていたにも拘らず、陸軍から陸軍大臣内定者寺内寿一の名において国体明徴問題などの処置に難ありとして組閣への干渉を受けたため、吉田茂、下村宏と共に入閣を阻止された。阿部内閣では、第一次近衛内閣・平沼内閣時代に司法大臣であった塩野季彦の反対を受け司法大臣に就任できず、代わりに内務大臣兼厚生大臣に任じられた。これは、当時の司法界における経済検事(捜査検事)系列の小原閥に対する思想検事系列の塩野閥の対立の結果と見られている。閣僚退任後は弁護士業を開業し、戦後に至り、公職追放となる。戦後、昭和電工事件では迫水久常の弁護を担当し、迫水唯一人のみ一審段階で無罪となった。指揮権発動で辞職に追い込まれた犬養健の後任である加藤鐐五郎の後を継ぎ、第5次吉田内閣で法務大臣を務めた。会津会会員。
◆泉二 新熊
日本の裁判官、官僚、刑法学者。奄美大島出身。東京帝国大学卒業後、司法省に入り、1915年(大正4年)大審院判事、1936年(昭和11年)検事総長、1938年(昭和13年)大審院長となる。退官後、枢密顧問官、その間、刑法学者として折衷的客観主義の立場から刑事司法の解釈・実務論を展開、「泉二刑法」と称された。東京帝大教授であった牧野英一と並ぶ戦前を代表する刑法学者である。いわゆる「方法の錯誤」について、法定的符合説(抽象的法定符合説)を採った大正六年大審院連合部判決に関与した。旧刑法には方法の錯誤の場合に故意犯の成立を認める誤殺傷罪があったが、現行刑法ではそれが削除された。 その立案関係者が関与した前年の大審院判決は具体的符合説を判示していたところ、判例変更したものである。 以降、最高裁も法定的符合説をとり、現在も判例の立場となっている。
◆和仁 貞吉
日本の判事(大審院長)、検事。東京府出身。1894年(明治27年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。1896年(明治29年)、浦和地方裁判所判事となり、東京区裁判所判事、東京地方裁判所部長、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事、京都地方裁判所所長、大阪地方裁判所所長を歴任。その間の1920年(大正9年)4月には法学博士号を取得している。同年7月より検事となり、長崎控訴院検事長、大阪控訴院検事長、東京控訴院検事長を歴任した。1924年(大正13年)、判事として東京控訴院院長に任命された。1931年(昭和6年)には大審院長に就任した。
◆牧野菊之助
日本の判事(大審院長)。帝国弁護士会名誉会員。東京府出身。1891年(明治24年)に東京帝国大学法科大学を卒業し、司法官試補となる。1893年(明治26年)、前橋区裁判所判事となり、東京地方裁判所判事、東京控訴院判事、東京控訴院部長、大審院判事、京都地方裁判所所長、東京地方裁判所所長を歴任。1918年(大正7年)には法学博士号を取得している。1920年(大正9年)には名古屋控訴院院長となり、さらに東京控訴院長、大審院部長を歴任した。1927年(昭和2年)に大審院長に就任した。その他、中京法律学校校長や潤徳高等女学校校長を務めた。
◆渡邊千冬
明治期の政治家、実業家。書家としての号は「無劔(むけん)」。筑摩県筑摩郡松本(現・長野県松本市)生まれ。子爵渡辺国武の養子で、実父は帝室林野局長官や宮内大臣などを歴任した伯爵渡辺千秋(国武の兄)。幼少時は慶應義塾などで学び、帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法学部)卒業。日本興業銀行を経て、日本製鋼所に入り取締役。1908年(明治41年)長野から衆議院議員に当選。1920年(大正9年)、襲爵後、貴族院議員となり研究会に所属、浜口内閣、第2次若槻内閣にて司法大臣を務める。大阪毎日新聞社取締役、1939年(昭和14年)枢密顧問官となり、他に関東國粹会総裁となる。書家としては隷書に優れ、将棋駒に「無劔」という書体のものがある。子に渡辺武、渡辺慧がいる。
◆豊島直通
日本の司法官僚。判事。検事。法学博士。東京府出身。1895年(明治28年)、東京帝国大学法科大学を卒業。司法官試補、東京地方裁判所検事・東京控訴院検事、司法省参事官、同法務局長、同刑事局長、東京控訴院検事長を歴任した。1923年(大正12年)、判事に転じ大審院部長となった。在職のまま死去した。
◆三木猪太郎
1870-1934 明治-昭和時代前期の司法官。明治3年6月29日生まれ。宮城,広島,名古屋の控訴院検事長をへて,大正13年東京控訴院検事長となった。昭和9年1月7日死去。65歳。阿波(徳島県)出身。帝国大学卒。
◆長島 毅
日本の裁判官。大審院長を務めた。横浜区生まれ。東京府尋常中学、一高を経て、1906年7月、東京帝国大学法科大学独法科卒業。同年、横浜正金銀行入行。1911年2月、司法官試補。1913年、東京地方裁判所・横浜地方裁判所判事。1916年、司法省参事官。1921年、東京地裁検事。1927年4月、大審院検事、同年12月、司法省民事局長。1933年札幌、1934年、広島両控訴院長。1935年、司法次官。1937年、大阪控訴院長。1940年、大審院部長。1941年、大審院長就任。1943年7月に法律新報に「戦争と法律」という題で「何でもかんでも勝たねばならない。我が国の人と物と力はこの目標に向かって進まねばならない。人と心と力の結集は法律を戦争の目的へと追い込みつつある。人と心と物の動きに立ち遅れた法律はただ屑籠に捨てられて顧みられない反古紙でしかありえない。法律は中心を失ってはならないが、この方向に向かって急転回して進まなければならない」旨の論文を掲載した。1944年2月に東條演説事件に絡んで細野長良広島控訴院院長が東條英機内閣総理大臣に送った抗議文の写しを手渡されたが、黙って机の中に入れただけだった。戦後、公職追放となり、追放中の1948年死去。
◆田中右橘
正三位勲二等. 明治8、鹿児島士族・末田景春二男、田中太郎太の養子. 東京帝大英法科卒. 大審院判事、東京控訴院長. 妻・ちよ. 明治18、宮城県、橋本信次郎妹。田中右橘(たなか うきつ)先生は、法曹界の偉材と呼ばれた元裁判官です。明治8(1875)年に鹿児島県で生まれ、旧制鹿児島中学校、旧制第五高等学校を経て、明治35(1901)年に東京帝国大学法学部を卒業。司法官試補として京都地方裁判所に奉職しました。大正9(1920)年に奈良地方裁判所長に補任され、その後は大審院判事、仙台、広島、大阪、東京の各控訴院長を歴任。ジュネーブにおける万国手形法に関する国際会議では全権として出席。昭和10(1935)年に正三位勲二等の栄に浴しました。
◆木村尚達
日本の裁判官、検察官、政治家。検事総長、司法大臣、貴族院議員。熊本県出身。東秀則の二男として生まれ、木村成苗の養子となる。中学済々黌、第五高等学校を経て、1906年7月、京都帝国大学法科大学を卒業。司法官試補となり奈良地方裁判所詰となる。1908年4月、検事に任官し東京地方裁判所予備検事に着任。以後、岡崎区裁判所検事、千葉地方裁判所検事を歴任し、1911年4月に退職。翌月、ドイツに留学し、チュービンゲン大学、ミュンヘン大学で学んだ。1914年に帰国し、同年4月、東京地裁判事に復帰した。以後、東京地裁部長、司法書記官兼司法省参事官、大臣官房調査課長、兼検事・大審院検事を歴任。1931年9月、司法省刑事局長に就任し、大審院検事、大審院部長判事などを務めた。1938年7月、東京控訴院(現東京高等裁判所)長、さらに、1939年2月、検事総長に就任した。1940年1月、米内内閣の司法大臣に就任。同年7月、同内閣が総辞職をすると、同月16日、貴族院勅選議員に任じられ、研究会に属して活動し、1946年5月16日に辞任した。戦後、1946年に公職追放となった。その他、法制審議会幹事、法規整備委員会委員、王公族審議会審議官などを務めた。
◆井本 常作
日本の弁護士、政治家(衆議院議員)。司法参与官。群馬県多野郡神流村(現在の藤岡市)出身。井本孫市の二男。1902年(明治35年)、明治法律学校(現在の明治大学)を卒業。判事検事登用試験に合格し、司法官試補となった。官を辞して卜部喜太郎の事務所に入り、在野法曹界の人となって実務の練習に努めた。1908年(明治41年)、弁護士を開業した。1924年(大正13年)、第15回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。立憲民政党に所属。3回当選し、濱口内閣で司法参与官を務めた。本郷区学務委員、同委員長、本郷区教育会商議員等にも挙げられた。その他には日本印刷、帝国電気工業各監査役、日東印刷取締役、東洋女子歯科医学専門学校理事、東京大勢新聞社長、第一東京弁護士会副会長、同会長などを務めた。1948年(昭和23年)、群馬県知事選挙に日本社会党から立候補したが、落選した。田中四郎左衛門の債務整理のために日比谷松本楼上で債権者と会議していた際、数名の暴漢に襲われて乱打を受け、昏倒した事があった。また、友人の三木武吉が憲政会の幹事長だったことで、誘われて選挙に出馬した。井本の人柄は『日本弁護士総覧 第2巻』には「資性剛健にして不抜、然も亦淡泊にして細事に拘泥せず、蓋し大丈夫の概あるもの」とある。1897年、家督を相続。趣味は読書。宗教は禅宗。住所は東京都文京区湯島天神町1丁目。
◆池田 寅二郎
日本の判事(大審院長)、検事、司法官僚。佐賀県出身。1903年(明治36年)に東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、司法官試補となる。1905年(明治38年)、東京地方裁判所判事となり、東京地方裁判所部長、司法省参事官、東京地方裁判所検事、大審院検事、司法省民事局長を歴任した。その間の1918年(大正7年)に法学博士号を取得している。1928年(昭和3年)、判事として大審院部長に任命された。1936年(昭和11年)には大審院長に就任した。
◆長島 毅
日本の裁判官。大審院長を務めた。横浜区生まれ。東京府尋常中学、一高を経て、1906年7月、東京帝国大学法科大学独法科卒業。同年、横浜正金銀行入行。1911年2月、司法官試補。1913年、東京地方裁判所・横浜地方裁判所判事。1916年、司法省参事官。1921年、東京地裁検事。1927年4月、大審院検事、同年12月、司法省民事局長。1933年札幌、1934年、広島両控訴院長。1935年、司法次官。1937年、大阪控訴院長。1940年、大審院部長。1941年、大審院長就任。1943年7月に法律新報に「戦争と法律」という題で「何でもかんでも勝たねばならない。我が国の人と物と力はこの目標に向かって進まねばならない。人と心と力の結集は法律を戦争の目的へと追い込みつつある。人と心と物の動きに立ち遅れた法律はただ屑籠に捨てられて顧みられない反古紙でしかありえない。法律は中心を失ってはならないが、この方向に向かって急転回して進まなければならない」旨の論文を掲載した。1944年2月に東條演説事件に絡んで細野長良広島控訴院院長が東條英機内閣総理大臣に送った抗議文の写しを手渡されたが、黙って机の中に入れただけだった。戦後、公職追放となり、追放中の1948年死去。
◆金川廣吉
從五位、勳六等 長野縣在籍 朝鮮總督府判事、大邱地方法院部長
生年月日 明治二十一年九月 (1888)
親名・続柄 金川彦太郞の三男 **
家族 母 ひさ 慶應二、六生、長野、金川房吉繼母
妻 恒子 明三四、六生、東京、伊藤行也三女
男 一彦 大一二、一生
君は長野縣人金川房吉の弟にして明治二十一年九月を以て生れ大正二年分家して一家を創立す同年東京帝國大學法科大學獨法科を卒業し朝鮮總督府司法官試補となり後同總督府判事に任ぜられ光州京城釜山平壤各法院判事に補し現時大邱地方法院部長たり
家族は尚二男穰(大一三、一〇生)三男千尋(同一五、三生)弟清(明三三、九生)あり
同森藏(同二五、二生)は長野縣人小根山龜吉の養子となれり
◆松井和義
正五位、勳四等 石川縣士族 司法省行刑局長
生年月日 明治十三年八月 (1880)
親名・続柄 千田信定の長男 **
家族 妻 幸 明二一、五生、石川、平櫻幸作長女
男 建一 明四五、一生
君は富山縣士族千田信順の弟にして明治十三年八月を以て生れ同四十一年先代幸の入夫となり家督を相續す同年東京帝國大學法科大學獨法科を卒業し同四十三年檢事に任じ爾來東京區橫濱地方名古屋地方同區福井地方同區各裁判所檢事監獄事務官司法省事務官司法書記官東京控訴院檢事大審院檢事等を經て現に司法省行刑局長たり曩に大正十一年瑞西に於ける萬國監獄常設委員會に委員として列席し又歐米各國に出張を命ぜらる。家族は尚二女美津子(大三、三生)二男修(同一〇、六生)三男洋(同一四、九生)あり
◆菅波鶴雄
從五位、勳五等 廣島縣在籍 廣島控訴院判事
生年月日 明治十四年四月 (1881)
親名・続柄 小塚佐太郞の四男 **
家族 養母 マツエ 慶應元、六生、岡山、川手堰長女
妻 コシズ 明一六、一〇生、養母マツエ長女
男 堅次 大七、一生
女 キミヨ 明四二、三生
女 ツネ 明四三、六生
君は廣島縣人小塚龜伊次の弟にして明治十四年四月を以て生れ同四十一年先代コシズの入夫となり家督を相續す同三十五年東京法學院を卒業し判檢事登用試驗に合格し同三十九年判事に任じ三次區呉區廣島區同地方尾道區各裁判所判事に補し大正八年現職廣島控訴院判事に補せらる
家族は尚三男清(大一〇、一生)四男弘(同一二、一二生)の外從伯母ヒサ(安政六、八生)あり
養妹テル(明二二、二生)は廣島縣人正田剛に嫁せり
◆秋山要
1884年 誕生 大審院検事
横浜地方裁判所検事正
1940年 司法省刑事局長(-1941年)
1941年 広島控訴院検事長(-1941年)
1941年 東京控訴院検事長(-1945年)
父:秋山信太郎
妻:吉井綾(東京、吉井真吉の五女)
男:秋山玄太
長女:秋山美恵子(東京、馬屋原成男の妻)
二女:秋山節子(福井、吉田閑の妻)
◆松村勝俊
台湾総督府法院検査官
◆里見寛二
朝鮮総督府検事。妻は平壌覆審法院長・土井庸太郎の四女、勝世。
◆山澤佐一郎
平壌覆審法院検事長
◆安達太助
甲府区裁判所検事として着任、甲斐犬愛護会を設立、初代会長として今日の礎をかためた。
◆以下は未調査(司法関係者の重役要職)
佐藤龍馬 相原守正 水野新三 千秋正 松浦是 麓巌 清水壮左久 長澤廉介 下田勝久 田中智作 道免作郎 佐久間辰二 福尾彌太郎 島津二郎 日下巌 磯悌三郎 真田俊雄
北岡準 窪田徳次郎 木田州 山口二郎 佐々木良一 末広清吉 服部平六 大野新一郎 田渕史郎 藤村英 二宮榮春 坂元不二男 鈴木庄太郎 中里龍 松野平一 鈴木祐彦 吉田正武 保持道信