湯本 定兵衛(ゆもと ていべえ)
写真材料商。 明治35年、写真機材や材料、輸入品などを扱う「忠勇社」を開いた。東京写真材料商組合設立にかかわる。明治36年、菊地東陽は再び上京した際に湯本定兵衛と会い、写交会に入った。
瀧川 慶雲(たきがわ けいうん)
滝川慶雲の表記もある。本名は滝川喜祐。明治27年以前、瀧川寫眞舘を開業した。光陽堂写真館の館名も残る。台紙製造業も営んでいる。明治30年頃に撮影されたと思われる上野公園西郷隆盛像の制作過程の写真が残っている。明治37年、『露国軍隊・服装武装写真帖』を出版している。明治39年、東京写真材料商組合の創立に貢献。
曽根 真文(そね まさふみ)
明治 29 年、東京・神田神保町に写真材料商・曽根春翠堂を設立。 のち神田猿楽町に移転。 小説家・尾崎紅葉に写真術を伝授している。 明治 34 年、アマチュア写真家団体・東京写友会を結成し、月刊雑誌「写真」を刊行。会頭は尾崎紅葉。 明治 36 年、尾崎紅葉が亡くなり、同会頭に就任し、日本写友会に改称している。 のち東京写真材料商組合長などを務めた。曽根春翠堂は成功しカメラメーカーにまで成長する。レンズは子会社の東京カメラワークスがフランスから輸入しテスター(Testar)という名で販売していた。しかしカール・ツァイスから「テッサーと名称が似ている」との抗議があり、1927年にモデラー(Modelar)と改称。以下のカメラ製品などを製造販売した。・1918年、アダム(Adam)- 手札四裁(4×5cm)判のボックスカメラ。シャッターはなくレンズキャップの着脱により露光。・1918年、スイート – 手札四裁判。このカメラのヒットより日本では手札四裁判を「スイート判」とも称するようになった。・1919年、スピード・レフレックス(Speed Reflex – 栗林写真工業(後のペトリカメラ)が製造したレフレックスカメラ。・1920年前後、アルファ – 手札四裁判のカメラ。・1920年前後、モナーク – ツァイス・イコンのゾンネットを模倣したアトム判のカメラ。・1920年前後、コンベックス – 一眼レフカメラ。写真乾板。イタリア製で当時日本にも輸入されたミュラーレフレックスのコピー品。・1921年、トキオスコープ(Tokioscope)- フランスのジュール・リシャールのグリフォスコープ(Glyphoscope)を模倣したステレオカメラ。・1923年、アポロ- 大名刺判高級ハンドカメラ。・1924年、セクレット(Secrette)- ブロックのフィジオグラフ、コンテッサ・ネッテルのアルグスやエルゴを模倣したカメラ。
大木 口哲(おおき こうてつ)
旧姓は森野。本名は森野石太郎。父・森野藤吉の二男として生まれる。写真材料商。東京写真材料商組合設立に関わっている。明治6年、上京し薬種商大木家に雇われ養子となる。大木勝右衛門と改め、のち十代目大木口哲となった。日本橋に新店を設け、伝来の霊薬五臓円のほか、同業者の調薬法を買収し、多くの薬を販売、大木合名会社を設立。大正2年、死去。東京売薬盛徳会幹事。日本製薬会社設立。東京売薬商組合頭取。全国連合売薬大会議長。東京製塩会社取締役。横浜米穀取引所理事長。横浜貯蓄銀行頭取。息子の大木良輔は、七生大木合名会社代表社員、應用製藥株式会社取締役、東京製鹽株式会社監査役。祖母は堀切勝右衛門長女・堀切その。二男大木宗三は東京府士族狩野豐勝の家督を相続。三女・大木登喜は京都府平民岡本辰次郞に嫁ぐ。初代・大木口哲は万治元年生まれの近江商人で、滋養強壮薬「大木五臓圓」を江戸両国広小路で売り出した。
浅沼 藤吉(あさぬま とうきち)
元治元年、江戸に出る。 日本橋の薬問屋を出てから写真館相手に湿板写真の薬品の行商を行っていた。 明治 4 年、日本橋呉服町に日本初の写真材料店を開業。 北庭筑波の紹介により内田九一、清水東谷、横山松三郎など、著名な写真師の存在を知る。 明治 8 年(9 年とも)、王子製紙の協力により写真台紙の国産化を進める。 明治 10 年、京都支店を開設。 明治 11 年、大阪支店を開設。 明治 14 年、宮内省御用となる。 明治 17 年、技術習得のため米国留学させていた吉田勝之助の帰国を待ち、平河町に東京乾板製造会社(浅 沼商会)を設立。 のち、日本橋区本町に本店を移転。帰天斎正一という当時有名な奇術師は、明治17年1月27日の読売新聞には、写真器械薬種商・浅沼藤吉氏の第三回起業会で府下有名の写真師、薬種問屋の人々等六十余名参会されたという記事がある。帰天斎正一については、写真師・中島待乳は、明治10年頃、幻灯機の製造を試み、手品師・帰天斎正一から注文を受けているほか、明治21年7月3日の奥羽日日新聞に、仙台東一番丁の写真師・高桑義守方に宿泊したという記事が載っている。明治39年、東京写真材料商組合が成立し初代組合長に就任。
小西屋六兵衛店(現コニカミノルタ)は 1 軒挟んだ隣同士であった。 昭和 4 年、死去。長男の淺沼東吾(明治九年生まれ)家督を相続する。浅沼藤吉の妻(浅沼けい、父の名は富留宮紋六。)は、川名竹松(浅沼商会で勤務し館山で写真師となる)の実家近くの商家「富留宮家」の出身であったという。三女(浅沼てる)は富留宮直亮に嫁ぎ、富留宮直亮は浅沼商会の専務を務めた。浅沼家の別荘が館山にあり、藤吉は大正13年から亡くなる直前まで暮らしている。