別名は高峰元稑。幼名は高峰剛太郎。号は槐処、槐窓。 妻は高岡の造り酒屋「津田屋、鶴来屋」の津田弥右衛門喜三次の娘・津田幸子。長男の高峰譲吉は、日本で最初期の近代的化学者として著名。菩提寺は、金沢市寺町の臨済宗国泰寺。 明治に入り高峰精一を名乗った。
天保14年、江戸で小石元瑞に学ぶ。弘化2年、江戸で坪井信道に就いて七年間西洋医学や化学(舎密学)を学んだ。 嘉永2年、帰郷し、父とともに医療に従事する。安政2年、壮猶館舎蜜方臨時御用に任じられ金沢に赴任。百石十人扶持を受け化学実験に没頭した。のち藩主(前田家)の御姫様付医師になり、前田家の典医に昇進。安政2年、壮猶館舎密方臨時御用。西洋流製薬試(土清水製薬所)。
安政3年、壮猶館舎密方御用。七人扶持。安政6年、御医者、壮猶館舎密方御用、兼帯。万延元年、大桑製薬所御用。文久元年、壮猶館翻役方御用兼、校合方御用兼帯。文久2年、新川郡で洋式硝石法指導、軍艦方御用兼帯、能州で石炭調査。
文久3年、加賀藩は彦三種痘所を開設し、黒川良安、津田淳三、大田美農里、高峰元稑(高峰精一)、鈴木儀六、伏田元幹らの医師が参画。これが卯辰山養生所金沢医学館、石川県甲種医学校、第四高等学校医学部、官立金沢医科大学、国立金沢大学へと続く源流となった。元治元年、土清水製薬所解体。慶応2年、壮猶館で死傷者15人の爆発事故が発生。慶応3年、養生所開設。舎密局惣理。慶応4年、養生所棟取。
慶応 3 年から明治元年にかけて、14 代藩主・前田慶寧が浅野川河畔の現常磐町から卯辰山帯にかけて、大規模な開発が行われた。その一画、舎密局の横、玉免ケ丘に「写真局」と称した施設が設けられた。写真局は明治 4 年まで存続している。舎密局の責任者には高峰精一、係員に吉田好二、旗文次郎、遠藤虎次郎、丘村隆桑の名が残っている。明治3年、医学館創設とともに棟取になる。明治3年、任権少属。医学館三等教師。明治4年、兼六園内の金沢理科学校が開設され、綜理に就任(翌年廃校)。明治13年、金沢医学所・金沢病院の分院、石川県富山病院にの院長に就任。
高峰精一自ら記した「先祖由緒並一類附帳」によると、姓は卜部であるという。初代・高峰刑部永知(大和国添上郡三笠)は織田信長に仕え、添上と添下の郡代に任じられる。のち元亀元年に摂津国守口で戦死。妻は相楽郡湯舟(船)の岩城左近娘と伝わっている。
2代目・跡を継いだ高峰仁左衛門知定(慶長10年)は三笠に住んだ。
3代目・高峰慶庵常安(延宝5年)は、京都の医師・典薬頭・半井驢庵に医術を学ぶ。元和年間、半井驢庵の江戸行きに同道した際に、福井藩松平家の侍医に就任。国替で越後国高田へ移った。妻は松平家の物頭・黒田半兵衛の娘。母方の岩城姓を名乗る。
4代目・藩医を継いだ高峰仙庵壽信(元禄5年、二百石)、子の高峰元陸ノ進(寛保元年、幼少のため百石)が、元禄12年に国替に同道せず辞して岩城から高峰姓に復した。この時点で高田の上小町で町医者になる。
5代目・高峰幸庵勇(安永9年)が町医者を継承。男子がなく、頸城郡山能美村の庄屋・松村兵右衛の次男を養子に迎える。
6代目・養子が高峰幸伯寛和(享和2年)と名乗り町医者を続ける。妻(延享3年)は高田出身の松平家臣中野家の娘。
7代目・高峰幸庵寛容(6代目の子)。安永8年に高田出身。通称・高峰元稜、後・高峰幸庵、字・高峰君象、号・高峰鼎亭、高峰遵時園。京都で吉益南涯の門人・吉岡氏を介して吉益南涯に師事し、『金匱要略紀聞』や『傷寒論紀聞』の口述筆記を担当。南涯の所持していた『解体新書』、特に気血水説を読んだ。賀川玄廸にも学び、杉田玄白への入門を企図して江戸へ行き、杉田立卿(杉田玄白の次男)や土生玄碩、大槻玄沢、桂川甫周からも触発された。眼科を専門にしつつ、薬や医療道具についても学ぶ。高田へ戻り、家老・鈴木甘井の『熊胆真偽弁』編纂に関与し、実験結果を大槻玄沢に送付し意見を聞くなどした。絵画では高田の善光寺に涅槃像の絵が残っている。妻は榊原家臣御馬廻組田辺善左衛門の長女・田辺トキ(磯部家娘の名知世とも)。子ができず、高田町年寄・長野金次右衛門(孫八郎とも)娘の長野辰を養女にした。文化10年、富山町へ来遊した際に高岡町医者の長崎浩斎が教えを請い、『解体新書』『西説医範眼科篇』を講じている。翌年高岡町に来た時には薬剤の製煉法を教示している。高岡町に残ってほしいと考えた長崎浩斎、南善左衛門(射水郡中川村・御扶持人十村)、津田弥右衛門(塩屋、高峰精一の妻の実家)などは、他国者の永住に反対する一部の町医者を押し切るために奔走し、町奉行の支持も取り付け、国泰寺(臨済宗)侍としてなら問題は無いという許諾を取り付けた。懇請を受け入れた幸庵は、日蓮宗であったのを臨済宗に改宗し、御馬出町に住む。著書としては『西説瘍医概言』『黴毒精薀』『医事旅行済生方』『西説眼球解剖篇』など。小堀正次や小堀遠州の末で高岡町奉行の小堀八十大夫政保、松井利(理)右衛門は、懇意であったという。松井利(理)右衛門の嫡男の松井藤馬清臣は医者を志していた。文政8年、体調を崩した幸庵は帰郷した松井藤馬を養女の婿に迎えることに同意した後、死去。
8代目・松井藤馬(高峰精一の父)は高峰玄台と名乗る。号は犀江、赤松青、梧門、雲翁など。文化11年、町の指導者長崎蓬洲と粟田佐久間が富山の漢学者・島林文吾を招き、聖安寺中の安乗寺で孟子・唐詩選等の学習会を開いた際に、町医者子弟の長崎浩斎、粟田庸斎、渡辺玄碩、内藤伊織、佐渡竜斎(八代目養順)などともに学ぶ。幼少から剣術より医術に関心が向いていた。加賀藩を代表して江戸の昌平黌(昌平坂学問所)に留学。高峰家を継ぎ、あらためて上京し究理堂(龍門楼)の小石家で解剖人体図を用いた蘭方医術を学ぶ。文政10年、嫡男の精一が生まれた。その後娘二人が生まれ、高岡町の米屋弥三兵衛と藩士岩田忠蔵に嫁ぐ。米屋弥三兵衛の弟は玄台に入門。玄台は医院を門人に委ねて精一とともに金沢梅本町に移った。
生年/出身: 石川(金沢)
開業年:
開業地、主要拠点: 石川
師匠: