高峰 精一(たかみね せいいち)

別名は高峰元稑。幼名は高峰剛太郎。明治に入り高峰精一を名乗った。江戸で医学を学び、23歳で帰郷。のち化学(舎密学)も学ぶ。
安政2年、壮猶館舎蜜方臨時御用に任じられ金沢に赴任。百石十人扶持を受け化学実験に没頭した。のち藩主(前田家)の御姫様付医師になり、前田家の典医に昇進。安政2年、壮猶館舎密方臨時御用。西洋流製薬試(土清水製薬所)。
安政3年、壮猶館舎密方御用。七人扶持。安政6年、御医者、壮猶館舎密方御用、兼帯。万延元年、大桑製薬所御用。文久元年、壮猶館翻役方御用兼、校合方御用兼帯。文久2年、新川郡で洋式硝石法指導、軍艦方御用兼帯、能州で石炭調査。
文久3年、加賀藩は彦三種痘所を開設し、黒川良安、津田淳三、大田美農里、高峰元稑(高峰精一)、鈴木儀六、伏田元幹らの医師が参画。これが卯辰山養生所金沢医学館、石川県甲種医学校、第四高等学校医学部、官立金沢医科大学、国立金沢大学へと続く源流となった。元治元年、土清水製薬所解体。慶応2年、壮猶館で死傷者15人の爆発事故が発生。慶応3年、養生所開設。舎密局惣理。慶応4年、養生所棟取。
慶応 3 年から明治元年にかけて、14 代藩主・前田慶寧が浅野川河畔の現常磐町から卯辰山帯にかけて、大規模な開発が行われた。その一画、舎密局の横、玉免ケ丘に「写真局」と称した施設が設けられた。写真局は明治 4 年まで存続している。舎密局の責任者には高峰精一、係員に吉田好二旗文次郎遠藤虎次郎丘村隆桑の名が残っている。明治3年、医学館創設とともに棟取になる。明治3年、任権少属。医学館三等教師。明治4年、兼六園内の金沢理科学校が開設され、綜理に就任(翌年廃校)。明治13年、金沢医学所・金沢病院の分院、石川県富山病院にの院長に就任。
高峰家の初代は、大阪府和泉市の和泉の郡宰(郡奉行)の高峰刑部。2代目・高峰仁左衛門。3代目・高峰慶庵は医師で、京都で生まれ江戸で医術を学び福井の松平家の侍医になったが、のち越後高田へ移った。4代・高峰仙庵、5代・高峰元稜、6代・高峰幸庵、7代・高峰幸伯と代々医業が受け継がれた。8代目・高峰幸庵は、京都、江戸で学び、眼科を専門とした。文化11年、高岡に初めて蘭医学を伝え開業し薬剤の製錬法を教示した人物。8代目の高峰幸庵に実子がなく、高田の長野金次右衛門の娘・長野トキ子を養女に迎え、松井利右衛門の子、松井玄台を婿に迎え継がせた。9代目・高峰玄台(松井玄台)は、江戸の昌平坂学問所で儒学を学び、後に蘭方医に転じて帰郷。10代目が高峰元稑(高峰精一)。妻は高岡の造り酒屋「津田屋」の娘・津田幸子。11代目・長男の高峰譲吉は、日本で最初期の近代的化学者として著名。菩提寺は、金沢市寺町の臨済宗国泰寺。


生年/出身: 石川(金沢)

開業年:

開業地、主要拠点: 石川

師匠:

弟子: 旗 文次郎 遠藤 虎次郎 丘村 隆桑