堀江 鍬次郎(ほりえ くわじろう)

後名は堀江宗平、号は堀江松沢(堀江松澤)、堀江宗平。諱は堀江忠雍。字は堀江公粛。津藩士。父は津藩士・堀江忠一。次男として江戸染井邸に生まれる。
安政2年、幕臣・曽根金三郎に西洋砲術を学ぶ。安政4年、長崎に遊学中、長崎海軍伝習所で、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに蘭学、舎密、写真術の基礎を学ぶ。四天王寺の墓碑には、騎兵砲隊築城諸頂を学んだと記載されている。津藩からは12名が参加していたという。同じく教えを受けていた上野彦馬と共同で写真術を研究し、 安政6年にはフランス人ロシエに湿板写真を学んだ。
津藩主藤堂高猷の援助で新鏡玉など湿板写真機と必要な化学品を 150 両で購入。文久元年、上野彦馬とともに江戸に上り、津藩主・藤堂高猷らを撮影した。文久元年、津藩邸で働く上野彦馬のことも撮影している。上野彦馬との共著で「舎密局必携」がある。内田九一に薬理学を教えている。文久3年、天誅組の乱に出兵。慶応 2 年、死去。墓所は三重県津市の四天王寺。後嗣に堀江忠重。同じく津藩士の水沼外衛、長井源内はともに写真術を研究していた形跡がある。

生年/出身: 1831 東京(江戸染井)

開業年:

開業地、主要拠点: 三重(津市)

師匠:

弟子: 内田 九一